庶民の手軽な商い棒手振 : 『守貞漫稿』(その5)
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幕府の弱者対策で許可証発行
棒手振は、天秤(てんびん)棒の両端に、商品の入った箱や籠を吊り下げ、棒を肩に担ぎ江戸や大坂で、魚・野菜など食材や食器、箒(ほうき)といった日用品を売り歩いた。
庶民が都市で簡単に営むことができる商いであり、万治2(1659)年、幕府が「振売札」(棒手振の許可証)を発行した時点で、江戸だけで約5900人いた。
5900人という数字は、実に曖昧(あいまい)だ。この時、幕府は商売にかかる税金を徴収したため、税金逃れのために振売札発行を求めなかった闇営業も多くいたと思われる。つまり、実際の人数は想像すらつかない。
棒手振は、何でも売り歩いた。「何でも」というと語弊があるかもしれないが、実態はそれに近い。食材・日用品に限らず、紙くず、火鉢に入れる灰、蛍や鈴虫などの昆虫などなど——とにかく「何でも」売った。
幕府の方針は50歳以上の高齢者、または15歳以下の子ども、そして身体が不自由な者に、振売札を与えるというものだった。江戸は度重なる火事で大勢の人が死に、親のいない「みなしご」や身寄りのない年寄りも少なくなかったので、社会的弱者の救済措置でもあったのだ。
気楽な日銭商売
だが、そんな方針は形骸化し、我も我もと、大のオトナが競うように棒手振になった。
「手に職を持つ」大工など職人と違い、技術や知識は不要。店舗を構えるための土地購入や、権利も不要。簡単に開業できるゆえ、もともと仕事のなかった者が、棒手振になる例が多かったのである。
新人の棒手振は、まず彼らを取り仕切っている親方を訪ねる。親方は商品の仕入れ代金(600〜700文 /1文12円換算で7200〜8400円)と、天秤棒や籠一式を貸し、さらに河岸(かし=卸売市場)の場所や仕入れの値段相場など、最低限の知識をレクチャーし、即日商売を許した。
1日の商売が終わると、親方から借りた仕入れ代金に100文につき利息2~3文(144〜252円)をつけて返済し、残った金が棒手振の収入となった。売り上げは1日1200〜1300文(14400〜15600円)だったというから、手元に残るのはだいたい580文(約7000円)という計算になる。(上記の金額はすべて『文政年間漫録』にあった野菜売りの場合)
そして、得た収入を節約して生活し、日々の仕入れ代金を自分で払えるようになった者や、商いのコツを覚えた者は、親方から一人立ちしていった。
一方、親方の下で日雇い労働者のような身分に甘んじている棒手振には、雨が降ったら休む者もいた。気が乗らなくて休む日もあった。妻帯者は妻と子を養う義務があったので日々仕事に励んだが、独身者の多い江戸には、気楽なその日暮らしの棒手振も星の数ほどいたのである。
昭和まで行商人のスタイルとして受け継がれる
『守貞漫稿』に描かれている棒手振は、約90種。その中から、日本ではなじみ深い、中高年層の人ならば、幼少期に目にしたことがあるはずの行商人の絵を紹介しよう。
バナー写真は鮮魚売り、つまり「魚屋」である。時代劇によく登場する「一心太助」は、魚の棒手振だ。菜蔬(さいそ)売りは野菜を売る「八百屋」。『守貞漫稿』によると瓜や茄子(ナス)の人気が高かったという。
また、「むきみ売り」と呼ばれたのはアサリ、シジミ、ハマグリなどの貝を売る者で、彼らも棒手振の代表格だった。東京都江東区の深川江戸資料館には、むきみ売りが住んだ長屋と天秤棒などの商売道具が、再現展示されている。
魚貝・野菜は江戸の棒手振の二大業種だったが、豆腐屋、心太(ところてん)などを売る棒手振もいた。天秤棒を担ぐ姿が自転車や軽自動車で売り歩くスタイルに変わったが、昭和の時代まで残っていた。
今では、祭りや縁日でおなじみの飴細工や金魚なども、江戸の時代は棒手振が売り歩いていたのだ。
江戸名物・唐辛子売りの奇抜なアイデア
また、特定のジャンルに限定せず、春夏秋冬、季節に合わせて販売する商品を変える合理的な棒手振もいた。こうした商売熱心な棒手振はそれほど多くはなかったと考えられるが、元手がなくとも、知恵と愛嬌で稼ぎを増やせるのも、この商売の利点だったといえる。
棒手振が扱った代表的な商品を表にまとめた。夏の項にある「冷水」(ひやみず)は、冷たい湧き水に白糖を混ぜ白玉を浮かべた江戸時代のスイーツ。「枇杷葉湯(びわようとう)」は、枇杷の葉を煎じたもので、夏バテや食中毒防止に効くとされ、人気商品だった。
棒手振が売っていた季節商品
春 | ワラビ、シイタケ、タケノコ、鮎、初鰹、鱒(マス) |
夏 | 金魚、朝顔、蚊帳、心太(ところてん)、冷水、枇杷葉湯 |
秋 | サケ、ブドウ、ナシ、鴨、キジ、松茸 |
冬 | 焼き芋、ミカン、タラ |
各種資料を参考に筆者作成
ビジュアル的におもしろい棒手振も一つ紹介したい。
「唐辛子売り」である。唐辛子売りの絵は『近世流行商人狂哥絵図』にあり、全長6尺(約180センチメートル)のハリボテの唐辛子を担いでいる。
寛永年間の頃、薬研堀不動院(中央区日本橋)の近くの店が、唐辛子に六種の薬味を入れて売り出したところ評判となった。これが七色(味)唐辛子だ。
「とんとん唐辛子 ひりりと辛いが山椒の粉 すはすは辛いが胡椒の粉」
売りながら歌うこの口上と、見た目のインパクトがあいまって、唐辛子売りは江戸の名物だった。これもアイデア勝負の一例である。現代で言えば、「ゆるキャラ」で人寄せするようなものか。ちなみに、『守貞漫稿』でも唐辛子売りを取り上げているが、ハリボテ唐辛子は描かれていない。
一方、悪徳商売に熱心な者もおり、『守貞漫稿』はこれを「妖売」とする。
「種々の贋物(にせもの)を欺き売るを業とする者也」「鶏、雁(がん)などの肉を去り、豆腐殻などを肉として売る」
鳥肉と称して、豆腐殻(おから)を売っていたという。おそらく、おからを練って鳥肉の偽物を製造していたのだろう。こんな商売が長続きしたとは考えられないが、地道な働き者がいる一方、詐欺まがいの輩もいたのである。
バナー写真 : 江戸っ子が楽しみにしていた初鰹(初ガツオ)を売る棒手振。新緑の季節(旧暦4月頃)の風物詩だった(『守貞漫稿』国立国会図書館蔵)