深化する43歳:「いつも崖っぷち」だった佐藤琢磨が2度目のインディ500制覇を成し遂げた理由
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本来なら東京五輪・パラリンピックが開催されるはずだった2020年は、コロナ禍により世界中で多くのスポーツイベントが中止や延期、もしくは無観客で開催されるという異例の年となった。
そんな状況の中、日本のモータースポーツ界では新たな金字塔が打ち立てられた。
F1のモナコGP、フランスのルマン24時間と並び世界三大レースと称される「インディアナポリス500マイルレース(略称:インディ500)」で、レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング(ホンダ)の佐藤琢磨が優勝し、17年に続く2勝目を達成したのである。
琢磨は10年にインディカーシリーズにデビューし、13年に第3戦ロングビーチで初優勝。通算6勝のうち2勝が大舞台のインディ500というのは、驚きに値する勝負強さだ。
43歳で迎えたシーズン、ベテランの域に達した琢磨が快挙を成し遂げられたのはなぜなのか。
日本最高峰のドライバーは「いつも崖っぷち」
琢磨は日本人として最も海外で成績を残しているドライバーだが、そのレースキャリアは本人の言葉を借りるなら「いつも崖っぷち」だった。
現代のドライバーのほとんどが幼い頃からカートレースでキャリアを積むのに対し、琢磨がレースを始めたのは19歳。イチかバチかで入校した鈴鹿サーキットレーシングスクールを首席で卒業し、英国に渡って本格的なレースキャリアをスタートさせた。
当時の琢磨を取材した筆者は「目標はF1で勝つこと」とさらりと言ってのける姿に気おされつつも、多くの日本人ドライバーが海外で苦労していた状況を知る身として「そう簡単じゃないよ」と諭したい気分だった。
だが筆者の心配をよそに、琢磨はレースで結果を残していく。
2000年の英国F3で日本人として9年ぶりの勝利を挙げ、01年にはタイトルを獲得。マカオGPなど国際F3のタイトルも総ナメにした。
彼のモットーである「ノーアタック、ノーチャンス」を当時から実践していたのだろう。孤軍奮闘しながらも自信をみなぎらせる姿に、筆者も「ひょっとしたら何かしでかすかも……」と淡い期待を抱き始めていた。
レース活動5年目にしてF1のシートを獲得
過去の日本人選手とは一線を画す戦績を収めていた琢磨は、2002年にジョーダン・ホンダからF1デビューを果たす。25歳になった年だった。
04年にはB·A·Rホンダを駆って、アメリカGP決勝で日本人最高位タイの3位に入賞。トップを何度も走り、フェラーリのミハエル・シューマッハらと丁々発止の戦いを繰り広げる琢磨に日本中のF1ファンが沸いた。
だが、ここぞという時にマシントラブルが出たり、接触によるリタイアがあったりで、琢磨はなかなか勝てなかった。
攻めのレースでクラッシュも多いため、「危険なドライバー」と揶揄(やゆ)されることもあった。いつもなにかが足りない。ほんの小さなボタンのかけ違いが琢磨のF1勝利の夢を砕いていった。
琢磨は06年、鈴木亜久里氏率いるスーパーアグリF1に移籍。オールジャパンでチームをゼロから興すというプロジェクトに加わった。すなわち最弱チームでの戦いである。
07年に2度入賞するなど新興チームとしてはエポックメイキングな成績を残したが、08年シーズンの途中、チームは資金難で参戦を断念。琢磨はシートを失う。
ドライバーとしてこれからという時、F1の門戸は閉ざされてしまった。
「勝利」を求めて新天地アメリカへ
レーサーとしてまさに「崖っぷち」の状況にあった2010年、琢磨は大きな決断をする。
「もうこれ以上は待てません。米国のインディカーに挑戦します」
琢磨はこのとき33歳。スポンサーの資金力などさまざまな「力学」が働き、実力だけではシートを獲得できないF1に見切りをつけ、チャンスをくれた米国に活路を見いだしたのだ。
だが、F1を90戦以上戦った琢磨をもってしてもインディカーの壁は高かった。
12年のインディ500では最終ラップ2番手から果敢にトップにアタックするも、失敗してウォールにクラッシュ。人々の記憶に残るレースとなったが、結果は残せなかった。
4年目となる13年のロングビーチでようやく初優勝を果たすも、その後は17年シーズンにいたるまで再び勝てない日々が続く。
その17年のインディ500で、琢磨はインディ3勝の強豪エリオ・カストロネベスを見事に抑えて優勝。勝負所で見せた駆け引きは12年のクラッシュとは見違えるほど自信にあふれていた。
インディ500で勝つためのピースは全てそろった
2012年にファイナルラップでスピンアウトしてから、琢磨はインディ500で勝つためのピースを毎年少しずつ拾い集めてきた。17年はそれがようやく形を成した勝利だった。
20年の2勝目は、勝つべくして勝ったと言える。
予選では日本人として初めて3位のフロントローにつけた。レースが始まれば燃料やタイヤなどのマネジメントを完璧に実行。2017年とは違い、計算通りの着実なレース戦略でライバルを封じ込めた。
残り5周で他車がクラッシュを起こし、イエローコーション(追い越し禁止)でのチェッカーとなったことで、“もしグリーンだったら”とちょっとした物議を醸した。
琢磨が逃げ切っていただろうという意見もあったが、2位のスコット・ディクソンは勝者の速さを認めつつも「サトウは最後まで燃料が持ったか分からない」と発言したのだ。筆者も気になって、レース後の琢磨に聞いてみた。
「イエローがなくても勝てた。燃料もちゃんと計算していたし、ディクソンが追い上げてきたら逃げる用意はできていた。大丈夫」
不遜な物言いではない。トップに立つ前も後も、琢磨は燃料とタイヤのマネジメントや走行ライン取りの攻防すべてを把握し、コントロールしていたのだ。
12年に足りなかったものを、今の琢磨ははっきりと理解し手中に収めている。レースを始めて英国に渡り、F1を経て米国に至るまで全ての経験が血となり肉となって、インディでの勝ち方を覚えた。もちろん「ノーアタック、ノーチャンス」の精神も健在。常に崖っぷちだった琢磨のキャリアは、今ようやく円熟期を迎えているのだ。
44歳で迎える21年シーズンも、レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングでの参戦がすでに発表された。インディ500の最年長勝利記録はアル・アンサーの47歳。どうせ遅咲きのヒーローならば、琢磨にはひときわ大きな花を咲かせてほしい。
(バナー写真=2020年5月28日、インディ500の伝統“祝杯のミルク”を頭から浴びる佐藤琢磨 写真:松本浩明)