“墓マイラー”カジポン氏の冒険の旅33年―世界の偉人たちに感謝を伝えたい
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19歳から53歳の今日まで、日本全国はもちろん、北極圏から南極まで、偉人たちの軌跡を追って世界中を旅してきたカジポンさん。「忙しすぎて、墓参した人の数は正確に把握していません。2年前から“2520人”のまま」だそうだ。「そのうち腰痛になったら、ベッドの上でしっかり数えようと思って。体が動くうちはとにかく墓巡礼に行きたい」
墓巡りをライフワークと呼ぶ熱い情熱はどこから生まれるのだろうか。
「スパシーバ」から始まった巡礼の旅
1987年の8月、カジポンさんは旧ソ連のレニングラード(現サンクトブルク)にあるドストエフスキーの墓の前にいた。「当時は19歳の学生でした。10代最後の儀式として、“育ての親”にお礼を言いに行こうと思い立ったのです」。墓に手を置き、「スパシーバ(ありがとう)」と伝えた時、雷に打たれたような衝撃が全身に走った。
高校2年から実家を離れて一人暮らし。「おやじがアル中でけんかが絶えなかった」からだ。多感で悩み多き10代に、『罪と罰』をはじめとするドストエフスキーの作品を読み、何度も心を救われた。高校3年の頃から文学や音楽、絵画などにのめり込む“ジャンキー(中毒者)”になった。きっかけは片思いだ。美大志望の後輩や音大生、図書館の司書などに恋する度に文学書を読みふけり、音楽を聴き、芸術家たちの人生を徹底的に調べるようになった。
いつも失恋に終わったが、世界は広がった。「56歳で生涯を終えたベートーベンは、失恋に失恋を重ねたけれど、片思いの苦悩の中で名曲を生み出しました。ゴッホも失恋ばかりでしたが、『ひまわり』のような傑作を描いた。ふられても世界の終わりじゃない。多くの芸術家が失恋を不滅の傑作に昇華させたんです」
ドストエフスキーと同じ墓地には、作曲家チャイコフスキー、ムソルグスキーの墓もあり、墓地を出る時には「他の芸術家にもお礼を言いに行かないと!バッハ!シェイクスピア!ゲーテ!急がないと!」と焦燥感に駆られたという。
精神的に苦しかった頃に支えてくれた“恩人”たちの人生をたどり、感謝の念を伝えたい。その思いに突き動かされ、トラック運転手などの仕事をしながら、資金が貯まると国内外の“巡礼の旅”に出る。その対象は人類の歴史、文化に貢献したありとあらゆる偉人たちへと広がった。「ネットが普及して、ホームページを作ったおかげで、講演依頼や執筆依頼で食いつなげるようになりました。でも、行き詰まれば、またトラックの運転手でもなんでもやりますよ」
「旅人を助けよ」と説くイスラム教
「墓参りと言っても、単に墓石を見に来ましたじゃだめなんです」ときっぱり言う。「大事なのは感謝を伝えること。近くに生家があれば寄ります。その人の生きた足跡をたどりたい。最終地点がお墓です。でも、資金が潤沢ではないので、選ばざるを得ない。そして、なるべく2回以上墓参することを目指します。複数回訪れてこそ、墓参りだと思っています」
目的地が墓地とは限らない。南極海で船上から、ロバート・スコットの遭難地点の方角に見当をつけて手を合わせ、北極圏ではロアール・アムンゼンが消息を絶った方角に向かって祈った。
中には内戦や治安の悪化で、再訪できない場所もある。
「1994年にシリアを訪れました。人生に一度だけでも、古代遺跡パルミラを見たかった。ダマスカスには洗礼者ヨハネの墓もありますし。旅先で出会った人たちは皆優しかった。イスラムには、『旅人を助けよ』という教えがあるんですね。アラビア語が全く分からないので、バスの路線の番号すら意味不明です。行きかう人たちに道を聞きまくり、たどり着き、遺跡の美しさに涙があふれました。気温40度の日中は、ユーフラテス川で泳いで気持ちが良かった。ホテルでは地元の人たちがテレビの前に集い、『キャプテン翼』のアニメを見ていました」
シリアは内戦の長期化で荒廃し、2015年、パルミラ遺跡は「イスラム国」(IS)に破壊された。
「子どもたちが安心して暮らせたあの穏やかな頃に早く戻ってほしい」。旅で出会った優しい笑顔に、カジポンさんは思いをはせる。
ゴーギャンの墓前で“Are you crazy?”
目的地にたどり着くまでに、さまざまな苦労がある。「南極点、北極点到達、ジャングルの中だけが冒険じゃない。世の中にはいろいろな冒険があるんですよ」
タヒチにあるゴーギャンの墓参の帰路には、急性腰痛に見舞われた。「日本からタヒチへの直行便は少ない上に、ゴーギャンが眠るヒバオア島は、プロペラ機で6時間半かけてたどり着く離島です。しかも週3便しか飛ばない。それでも、世界中から墓参にやって来る。ですから、墓前で初めて出会った人たちが交わすあいさつは、“Are you crazy?”ですよ。初対面でも同志の意識が芽生えます。無事に墓参りを済ませたものの、タヒチ航空のストライキで日本への直行便がキャンセルになり、いったんロサンゼルスへ行くことに。がっくりしました。ロスから乗り継いだ飛行機の中では、ぎっくり腰になっちゃった。なんとか自宅に帰り着いたものの、2週間寝込みました」
フランスでは、車上荒らしの被害にあった。パリ郊外のオヴェール・シュル・オワーズでゴッホの墓参から戻ると、レンタカーの窓ガラスが割られ、荷物が全部盗まれていた。地元の人が警察まで連れていってくれた。盗難届を出す間、中年の警察官が「私はこんな漢字を知ってる」とホワイトボードに書いた言葉は「大西洋」。「2カ月分、レンタカーの料金を払い込んであったのに、国際運転免許証も盗まれてしまった。日本に戻って再発行してもらわなければならない状況ですよ。落ち込んでいたけど、もう笑うしかなかった。帰り際には日本語で『良い旅を』と書いたメモをくれた。目頭が熱くなりました」。一度帰国してから、旅を再開した。
欧州を1カ月かけて巡った際には、旅の最初の頃にベルギーの骨董(こっとう)店で購入したベートーベンの胸像と一緒に動き回った。「最後にロンドンの空港で落として割れてしまい、帰国してから、接着剤で修復しました」
2020年に生誕250年を迎えた大作曲家を、深く尊敬している。「ベートーベンの時代のウイーンは、フランス革命が起きたこともあって、自由を弾圧する動きも激しかった。彼は『第九』(交響曲第9番)で、人間は貴族も平民も関係なく、みんな兄弟なのだと人類愛をうたいあげたんです」
ウイーンにあるベートーベンの墓はメトロノームの形をしている。発明されたばかりの頃に、最初に愛用した作曲家だったからだ。「難聴でも振り子を見れば速度が分かるので、とても喜んだそうです」。「楽聖」の隣に眠るのはシューベルトだ。「願わくは、2人の間で僕も眠りたい」
「ヒッチハイク」でロシア入国
ロシアとの国境に近いポーランドの町・フロムボルクには、天文学者コペルニクスの墓がある。その墓参りを済ませた後で、哲学者カントの墓を目指した。ポーランドとリトアニアの間に位置する、離れ小島のようなロシアの都市・カリニングラードが所在地だ。「カントは世界平和のために、早くから今の国際連合のような組織をつくろうと提唱していた人ですからね。人類のことを考えてくれてありがとうと言いたかった」
「なぜか鉄道で行けないと言われ、国際バスしか交通手段がなかった。しかも、朝・夕2本の便だけらしい。1泊してバス停で朝6時半から2時間待ってもバスは来ません。警察に聞こうと思って行き着いたのは、ポーランド軍の駐屯所で、温かいお茶と山盛りのドーナツをふるまってくれました」
国境警備隊も親切だった。「検問所でバスの到着を待たせてくださいとお願いして、自分は墓巡りをしている日本人だと説明しました。ポーランドを訪れる前に、杉原千畝の領事館跡を訪ねてリトアニアに入り、(お墓が同国にある) “ポーランド建国の父” ユゼフ・ピウスツキの墓参もしたので、その写真を見せたんです。感心してくれて、ロシアに向かう車を片っ端から止めては“日本人を乗せてやってくれ”と交渉してくれた。おかげで、おばあちゃんと娘さんの2人組が僕を乗せてくれることに!無事にカントの墓前にたどり着きました」
長距離バスで米国横断
何回か訪れた国の一つがスペインだ。「何度も巡礼したので、そのたびにサグラダ・ファミリア聖堂がどのくらい出来上がっているか観察した」と言う。「ガウディ、ゴヤはもちろん、有名人のお墓はほとんど全部行ったと思う。(エルサレム、バチカンと並ぶ)キリスト教の三大巡礼地の一つ、サンティアゴ・デ・コンポステーラにも行って、聖ヤコブの墓も訪ねました」
バルセロナでは画家ジョアン・ミロが眠る墓地を訪れた。モンジュイックの丘にある広大な墓地だ。「管理人さんの手書きの地図が超アバウトで、炎天下の中、脱水状態になりつつ墓地をさまよいました。地図には、道筋にエスカレーターがあると書いてあるのに、どこにもない。事務所に戻って案内してもらったら、階段でした。エスカレーターは“escalera mecánica”で、“escalera” だけなら階段。そんなことも知らなかった。あの時以来、ミロの絵を見るたびになぜか喉が渇くんです…」
英国での墓参は、アーサー王からシェイクスピア、ニュートン、コナン・ドイル、ローレンス・オリビエ等々、約60人におよぶ。「南部ドーバーから北部ネス湖周辺まで、行ってない場所の方が少ない」
米国には数回訪れて、リンカーン、エドガー・アラン・ポー、ヘミングウェイ、エジソン、ビリー・ザ・キッドからマリリン・モンローまで、260人以上の墓を巡った。同時多発テロが起きる1年前、2000年には長距離バスで全米を一周。「バス代3万7000円で30日間過ごしました。眠くなったら、夜行バスに乗ればいい。運転手の休憩時間には、駐車場の端で、ペットボトルに入れた水で髪を洗ったり、マクドナルドのトイレで体を拭いたり。ロサンゼルスからニューヨークまで、ホテルには一泊もしませんでした」
101カ国を巡って実感したこと
40歳ぐらいまで一人旅が多かったが、18年前に結婚してからは、家族と一緒に旅する機会も増えた。現在小学5年生の息子がまだ幼い頃に、米国やヨーロッパを一緒に旅して、ウォルト・ディズニーやマイケル・ジャクソン、グリム兄弟やアンデルセンの墓などを訪ねた。
オーストラリアはカンガルーの飛び出しに悩まされながらレンタカーで巡り、パースでは早世した俳優、ヒース・レジャーの墓へ。「息子は、物心がついてからは、一緒に墓前で “ありがとう” を伝えることを楽しみにしてます」
昔は墓の場所を調べるのも手間がかかったが、いまはインターネットが助けてくれる。「ネットには誤情報も多いですが、グーグルマップや 乗り換え案内を活用して、目的地にたどり着くのは格段に楽になりました」
「体力があるうちにイタリアの山奥や、中東など、遠くてアクセスが悪い場所に行っておこう」。そう思っていたので、アジアを集中的に巡るようになったのは最近のことだ。
2019年には、韓国、台湾に旅した。ソウルでは朝鮮の陶磁器を愛して現地で研究した日本人、浅川巧の墓参りをし、南部では光州事件で散った学生たちの墓にも行った。台湾では、テレサ・テン、独立運動の英雄モーナ・ルダオ、烏山頭ダムを建設した八田與一の墓を訪れた。
「101カ国を巡って、人間は国籍と文化が違っても、相違点よりも共通点がはるかに多いことを確認できた。笑顔は笑顔で返してくれるし、困った旅人を助けてくれる」。どこに行っても、墓参りに来ている人たちの表情は故人への思慕と祈りの念が感じられる。「だからこそ、国同士の対立がある時でも、僕たちは共通点の方を見て、お互いに敬意を払いたい」
「ピカソ家の友人はご一報を」
2020年には、初めてとなる中国全域の墓巡りを計画していたが、コロナ禍で果たせなかった。「30年前に上海の魯迅の墓を訪れて以来の訪問になるはずでした。中国の今を見たいと楽しみにしていたんですけどね」
国内の墓参もままならない中で、膨大な情報を詰め込んだネットサイト「文芸ジャンキーパラダイス」をアップデートする日々。早く海外に旅立てる日を心待ちにしている。
「まだ実現できていない墓参りもあります。ピカソの墓は、子孫が住む南仏・ヴォーヴナルグ城の庭にあるので友人でないと入れない。門の前までは2回行ったんですが。スペインのマラガにある生家には行ったし、マドリードで『ゲルニカ』も見ました。ぜひ、墓前でお礼を言いたい。『ピカソ家に知り合いがいる人は、カジポンにご一報を』と記事に載せてくださいね」
バナー写真:“恩人”ドストエフスキーの墓前で(2005年、2度目の巡礼)
バナー、本文中巡礼写真提供:カジポン・マルコ・残月