たいわんほそ道〜新荘を歩く(前編):潭底溝から民安路へ

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先住民族が暮らしていたこの土地に、オランダ・スペイン、鄭成功、清朝、日本、中華民国、そして現在は新住民として世界のあちこちから人々が移り住み、多様な文化に跨っている台湾。時間という永遠の旅人がもたらした様々な経験を、ひとつの街道はいかに迎え入れ、その記憶を今、どう遺しているのだろう?台湾各地へと足を伸ばすなかで、残り香のように漂う歴史記憶の断片を拾い集めながら、実際に出会った人々や風景について紹介する。

道とすべきは常の道にあらず。いにしえに生まれた道をさまよいつつ、往来した無数の人生を想う。

ふと大通りから外れていった何でもない道に、やおら歴史の堆積を感じさせる大木や寺廟があらわれ、通りを包む落ち着いた空気の佇まいに気づく。後で古い地図を見てみれば、なるほどここは「旧道」であった。旧道とは、その土地の地形に合わせて生活し移動していた人々や家畜の足で踏みしめられ、いつの頃からか人と人を繋ぐ線となり、のちに新しく開通した道路に役割をゆずった道のことである。地味で目立たないながら、清朝末期から日本時代、戦後から現代と、台湾100年の激動の歴史を眺めてきた由緒ただしき旧道たち。

かつてそこにあった風景を、そうだ、眺める旅にでかけよう。

金子常光の俯瞰地図

歩くのは、台湾台北盆地の西南に位置する新北市新荘区の旧道である。18世紀以前は平埔族(へいほ・ぞく/台湾の平地に住む先住民で、高地に住んだ高砂族と区別して使われた名称)のケタガラン族が暮らしていたという地域で、武朥灣社(Pulauan)という集落があった。

日本時代には農業地帯として重要視され、1934年の新荘あたりの風景をパノラマ的に俯瞰した地図「新荘郡大観」をみれば、川沿いには甘蔗(さとうきび)やホウレンソウ畑があり、北にはなだらかな山あいに茶畑が広がっている。その向こうには淡水八里の観音山を望み、右に視線を移せば大屯山、そのはるか向こうには門司・神戸・東京と富士山が見えるという、なんとも想像力を刺激される仕掛けだ。

この俯瞰地図を手掛けたのは、日本時代の絵師・金子常光。鉄道観光ブームで各地の物産や風物、観光スポット、交通手段などを美しい色彩で表現し、眺めるだけで現地を体感できるパノラマ俯瞰地図が多く作られるようになった。金子常光は、パノラマ俯瞰図の第一人者で「初三郎式地図」で知られる吉田初三郎に弟子入りし、台湾各地の多くの俯瞰地図を残した。

千の船、千の家灯り

散歩のスタート地点は「潭底溝(タンディーゴウ)」。桃園市亀山区新朝嶺あたりに端を発し、淡水河につながる「大漢溪」に流れ込む「塔寮坑溪」という川の支流で、『新荘郡大観』の中にも姿を見せている。

散歩のスタート地点「潭底溝」は、かつて汚染がひどく「あらゆる色」に変化する川と呼ばれた(筆者撮影)
散歩のスタート地点「潭底溝」は、かつて汚染がひどく「あらゆる色」に変化する川と呼ばれた(筆者撮影)

新荘は「新興の荘街」を意味し、漢人の開墾いらい北台湾でもっとも早く開発された。川に沿った土地の利によって淡水港の内港として発達し「千帆林立新荘港,市肆聚千家燈火」(千隻の船が新荘港に立ち並び、千の家の灯りがともる)と讃えられるほど、1800年前後には水運で栄えた。

しかし、淡水河に堆積した土砂のため船の往来ができなくなると、水運の発展は対岸の艋舺(バンカ)に取って代わられる。清代後期には鉄道が開通して鉄道交通の要所となったが、川の氾濫が度重なり、日本時代以降はその座を板橋に譲った。水運で栄え、水害で鉄道を失うなど、水に運命を大きく変えられてきた地域といっていい。

この潭底溝も、度々水害を引き起こしてきただけでなく、上流の工場地帯からの違法排水によって「赤・黄・紫・黒、あらゆる色に変化する」と言われた。またゴミの不法投棄場として地域住民を悩ませ、新聞を賑わせてきた。ここ10年ほどは市の環境保全局と地域コミュニティーがともに環境美化につとめている。想像していたよりもきれいな川だと思った。住民の環境意識を高めるためだろう、あちこちの壁に「ウォールペインティング」が施されるなど苦労がしのばれる。

「潭底溝」から市場にかけて多くのウォールペインティングが見られる(筆者撮影)
「潭底溝」から市場にかけて多くのウォールペインティングが見られる(筆者撮影)

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