東郷元帥ゆかりの銀杏: 英国からの「帰郷」
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東郷の遺髪が埋葬された墓所で行われた植樹式
「東郷平八郎元帥、(銀杏を寄贈した旧薩摩藩出身の)当時の上野景範(かげのり)駐英特命全権公使を通した歴史的つながりに光があたることで、鹿児島と英国との深いつながりをさらに実感した。銀杏が育ち、日英、鹿児島と英国の縁がさらに深まることを祈る」
2020年11月22日、植樹式を主催した鹿児島日英協会の島津公保会長は挨拶した。旧日本海軍の東郷元帥の生誕地、鹿児島市内の東郷元帥の銅像と遺髪が埋葬された墓所のある多賀山公園の一角に、「東郷の銀杏」の苗木が植えられた。 そこからは桜島と錦江湾を望める。
鹿児島市の森博幸市長(当時)も、「東郷元帥ゆかりの銀杏の植樹を通して英国の都市との交流がさらに広がる。鹿児島、日本と英国の絆として、銅像がある多賀山公園への植樹は鹿児島市にとっても大変ありがたい。大切に育て、成長させて、若い人たちが近代化を成し遂げた薩摩藩英国留学生らの意気込み、思いを受け継ぐ拠点としたい」と語った。
生麦事件を発端に英国と干戈(かんか)を交えた薩摩藩は、戦後の和平交渉で賠償金を支払うとともに、英国に使節団・留学生を派遣して蒸気船や機械、武器を輸入し、日本で最初に英国と親善関係を結び、明治維新後の日英親善の礎(いしずえ)となった。
こうした歴史を踏まえてポール・マデン駐日英国大使は電報で祝辞を贈った。
「日英友好の印である銀杏の植樹から四半世紀後には日英同盟が調印され、今年、英国は欧州連合(EU)離脱後初の自由貿易協定を日本と結んだ。150年近く経た今なお、新たな形での強い結びつきが生まれ、日英関係はさらに高みへと向かおうとしている。ペンブロークの地元の方々に大切に育てられた銀杏の木は、日本と英国の現在の力強い関係を示すかのようだ。今回、植樹される苗木がわれわれの次の世代、またその次の世代でも、日英親善のスタートともいえる鹿児島の地でしっかりと根を張り、日英両国の友好関係が深化し、発展し続ける象徴になることと信じます」
東郷元帥と血縁関係にある有村治子参議院議員も、「昨今、中国が狙う覇権主義に抗(あらが)い、自由と民主主義を尊ぶ国際秩序を維持するためにも、海に生きた東郷元帥ゆかりの銀杏が海洋国家・日英の強固な絆の証となり、両国のさらなるパートナーシップが深まることを念じ、そのように行動いたしたく存じます」と祝電で述べた。
銀杏はロンドンのパディントン駅から日立製の高速鉄道とローカル線を乗り継ぎ約8時間、英海軍工廠(こうしょう)のあった英国西部ウェールズのペンブロークドックにある。その地で、初代「比叡」(コルベット艦)が建造されたことに由来する。
明治新政府は軍艦として、「金剛」「比叡」「扶桑」の3隻を当時、造船技術が世界一だった英国に発注した。3隻はアジアでは唯一の近代的装甲艦で、黎明期の日本海軍のシンボルとなった。「比叡」と「金剛」は1890年、トルコ軍艦「エルトゥールル号」が和歌山県串本町で遭難した際、65人の乗組員をトルコに送り届けた。その乗組員の1人が日露戦争の日本海海戦で作戦担当参謀として活躍した秋山真之(さねゆき)だった。
軍艦建造の謝意として日本政府が寄贈
当時、軍艦を所有することは現在でいえば、核兵器級の武器を持つことと同様の意味があったのだろう。地元新聞によると、1877年6月、ペンブロークで行われた盛大な進水式に、ロンドンから上野公使ら日本代表団十数人が列車を貸し切って駆け付け、「日本政府からの謝意」の印として銀杏を地元に寄贈した。
銀杏は当時、1871年から英国に留学し、大尉として船の建造を監督する艤装(ぎそう)員として東郷元帥が滞在していた英海軍士官宿舎の裏庭に植えられた。東郷元帥は1877年から78年、ロンドン・ドッグズ島にあった造船所、サミューダ・ブラザースで建造された「扶桑」の建造監督も行っている。
鹿児島城下生まれの上野公使は蘭学隆盛だった幕末に英学の必要性を痛感し、独自に英学に転向。明治新政府に外交官として採用され、ロンドンに赴任していた。英国の日本人社会では、上野公使が最高位だったため、明治新政府の代表として銀杏を贈った。
地元では、進水式に参加し、翌1878年に「比叡」を回航して帰国した東郷元帥が1905年5月の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破したため、「わが町こそ日本海軍発祥の地なり」と市民はいつしか銀杏を「東郷元帥の銀杏」として語り継いだ。
「挿し木」で育てた15本の苗木
ペンブロークドックの旧海軍工廠内のヘリテージセンター(博物館)では、銀杏の大木を背景に、「比叡」の進水式を伝える地元紙記事と若き東郷元帥、「比叡」の模型写真を重ねて、「日本海軍が誕生」と記したポスターが掲示されている。地元紙に掲載された進水式の記念写真には英国人とともに日本人が十数人写っており、このうちの一人が若き東郷元帥ではなかったかと指摘されている。
ペンブロークでは、20メートル近くの大木に成長した銀杏を地元郷土史家、デービッド・ジェームズさんが中心になって、2018年ごろから「日英友好のシンボル」として日本の東郷ゆかりの地に「帰郷」させるプロジェクトが始まった。
ウェールズ政府で広報部長を務めたベット・デービスさんを通じてスウォンジー在住の元航空自衛隊空将補の松井健さんに協力を依頼し、松井さんが銀杏の枝や葉の一部を切り取り、土に挿して発芽させる日本式「挿し木」の技術をアドバイスした。デービスさんがウェールズ国立植物園に栽培を依頼すると、同園の園芸家が無償で「挿し木」をして苗木15株を約40センチに育てた。
筆者が銀杏の「帰郷」プロジェクトを18年10月に「産経新聞」国際面で報じると、東京・原宿の東郷神社や広島県呉市から受け入れの申し出が届いた。19年初めには京都府舞鶴市、長崎県佐世保市、神奈川県横須賀市から、さらに東郷元帥の生誕地・鹿児島や私邸跡がある東京都千代田区からも希望をいただいた。
しかし、苗木の輸入には厳格な検疫があった。在英国大使館の防衛駐在官だった野間俊英氏が農水省から出向の大使館員を通じ植物防疫所に問い合わせ、病害虫が付着していなければ、検疫もクリアでき、英国から輸出許可も得られると分かった。東郷銀杏プロジェクトに理解を示した鶴岡公二前駐英大使が支援したためだった。鶴岡前大使はペンブロークを訪ね、銀杏を視察した。
苗木を輸入後、日本の植物園で養生する必要があった。筆者が再び、「産経新聞」国際面のコラムで、「手弁当で育ててくれる植物園を探している」と呼びかけると、呉市文化スポーツ部の神垣進部長が広島市植物公園の林良之園長から「協力したい」との回答を得て、同植物公園が養生を引き受けてくれた。
100年前からつながる“ご縁”
最大の難問は日本へいかに輸送するか、だった。在英日本企業から募金を集める計画を進めたところ、日本郵船のNYK Group Europe社副社長兼チーフオペレーティングオフィサーだった久保田圭二氏が本社と掛け合って郵船ロジスティクスが空輸することになった。
ジェームズさんと日本郵船には浅からぬ縁があったことも大きかった。ペンブロークドックから車で南へ約20分の距離にあるアングル村のセントメリー教会墓地に眠る日本郵船に関係する日本人の墓碑の再建をジェームズさんが実現させた経緯があったのだ。
およそ100年前。第一次大戦終結1カ月前の1918年の10月、ウェールズ沖で英中部リバプールから横浜に向かう日本郵船の貨客船「平野丸」がドイツ潜水艦Uボートに撃沈され、乗客、乗員210人が死亡、9体の遺体がアングル村に漂着し、同教会墓地に手厚く葬られた。
当時、日本は同盟国だったため、地元住民は教会の敷地内に木の墓標を建立(こんりゅう)して弔った。しかし、墓標が朽ち果てたため、ジェームズさんは募金を集め、日本郵船も協力して花崗岩の墓碑を再建し、2018年10月4日、英王室からエリザベス女王のいとこのグロスター公を招き、墓碑除幕式を行ったばかりだった。
こうして東郷ゆかりの銀杏の苗木15株が2019年12月24日、郵船ロジスティクスによってウェールズ国立植物園から広島市植物公園に届けられ、苗木を土壌に慣らし、その1株がまず7月1日、呉市の旧東郷家住宅離れの庭に移植された。
新原芳明呉市長は「東郷元帥を通じて英国海軍と呉市がつながった。呉鎮守(くれちんじゅ)府の歴史の中で記念すべき日となった」と喜びを語った。プロジェクトに賛同した駐日英国大使館国付防武官のサイモン・ステイリー大佐も日本語で、「英国ウェールズから届いた銀杏の樹齢は何千年に及び、生命力が強い。銀杏のように日英関係がさらに強固になることを期待する」と挨拶した。東郷神社でも境内に苗木を移植したが、正式なお披露目の植樹式はコロナ禍が明けるとされる2021年春以降を予定している。
手弁当で銀杏の帰郷が実現したのは、日英で草の根の多くの人たちの善意の輪が広がったため。尽力のリレーの賜物だ。日英の人たちの東郷元帥を敬愛する気持ち、東郷元帥を通じて日英の友好親善を深めたいという熱意が不可能を可能にしたといえる。
目的は異文化の相互理解と友情を深めること
そして2020年11月22日に苗木は鹿児島に移植されたが、当初、鹿児島市は「市が主体的に関与しない」と呉市に伝えるなど、東郷銀杏の植樹に消極的だった。やむなく主催者として移植させた鹿児島日英協会が寄贈する形で、今後は鹿児島市が銀杏の苗木の維持管理と市民への広報に努めるという。
同協会によると、鹿児島市は当初受け入れ団体として候補にあがった海軍・海上自衛隊の親睦団体、公益財団法人水交会・旭日会が数十年前に反戦派の団体ともめ、市議会が紛糾したため、軍や戦争をイメージさせるとしてナイーブになり、旭日会が主催であれば、行政として関与せず、公費も捻出できないとした経緯があった。
ただし、同協会主催ならば、場所の提供、移植後の管理はできるとの回答があり、市有地への移植となった。
発案者のジェームズさんは「戦争を美化するつもりはありません。戦争は無駄で、犠牲になって死亡した人たちがいたことを忘れるなら、再び同様のことが起こるリスクがあることを覚悟しなければなりません。目的は日本人と英国人が互いの異なる文化をさらに理解し合い、友情を深めること。日英の友好親善が深まることを祈りたい」と述べた。
英国では第二次大戦中、日本軍の捕虜となった元兵士がその処遇を恨んで地域によっては日本を「残虐、野蛮」と見なすステレオタイプがあるが、ペンブロークでは、逆におよそ100年前までの日英同盟時代の仲間意識が強い。75年前にインパールなどに派遣されて旧日本軍と戦った部隊がなかったため「親日」で、東郷元帥を「東洋のネルソン」と慕い続けたのだろう。
それはトラファルガー沖海戦で命を張って英国艦隊を勝利に導き、勝利の報告を聞きながら生涯を閉じたネルソン提督のように、東郷元帥が国家存亡の危機から救うため、日本海海戦中、敵の砲弾が乱れ飛ぶ、吹きさらしの艦橋に立ち続けたという生命を賭したリーダーシップと、敵兵の救助に最善を尽くし、降伏した敵将を紳士的に扱った武士道精神が世界から称賛されたゆえんだろう。
来年は呉市に続いて神奈川県横須賀市や京都府舞鶴市、長崎県佐世保市などに銀杏の苗木を帰郷させ、旧海軍軍港4市が協力して作成した共通の「東郷元帥ゆかりイチョウ」と銘打ったプレート(銘板)をそれぞれの銀杏の近くに立て、開放する。
EUを離脱した英国はEUとの自由貿易協定交渉が行き詰まり、コロナ感染では欧州で最多の5万人以上の犠牲者を出し、苦境に立たされている。
「グローバル・ブリテン」としてインド太平洋に戻るにあたって、最も頼りにするのは日本だ。安全保障や通商、諜報などあらゆる分野で連携して新たな同盟関係を築こうとする中で、東郷銀杏の移植は民間草の根レベルで日英の絆をさらに強める触媒になることだろう。
バナー写真:銀杏の苗木を持つ鹿児島日英協会の島津公保会長(左)と狩所貴久事務局長(右)筆者撮影