京都(前編):疫病や戦火、災害に見舞われた1200年の歴史文化都市

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794年に平安京が築かれて以来、1869年に首都が東京に移るまで、京都は1000年以上も日本の文化的・政治的中心だった。東京、大阪と並び称される三都の一つである京都の歴史をたどりながら、この古都の魅力を前編・後編で紹介する。

疫病と戦った先人たちの記憶

2020年、新型コロナウイルスが世界中の人々の活動を抑制し、人の流れが滞った。日本を代表する歴史文化都市であり、国際観光都市として知られる京都も例外ではない。春から夏にかけて内外からの訪問が途絶え、名所や観光地から人々の姿が消えた。ようやく秋になって、感染症対策に最大限に心を配りながら国内の旅行者を受け入れるようになった。しかし21年になっても感染拡大の動きは収まりそうになく、かつてのように国内外から観光客がやってくるのはしばらく先のことになりそうだ。

もっとも京都で暮らす人々が、疫病に襲われるのは今回が初めてではない。古くは9世紀の中頃にも伝染病がまん延し、多くの人が命を落とすことがあった。朝廷は、863(貞観5)年、神泉苑で「御霊会(ごりょうえ)」と称する儀礼を執り行った。当時、疫病は恨みを残して亡くなった人々の怨霊の祟(たた)りが原因であると考えられていた。そこで薬師如来の垂迹(すいじゃく=仏の仮の姿)である除疫神・牛頭天王(ごずてんのう)を祀(まつ)り、人々の無病息災を祈念した。

しかし日本各地ではその後も不吉な出来事が続く。864(貞観6)年には富士山が大噴火を起こし、869(貞観11)年には東日本大震災に類似すると言われる貞観地震が三陸沖で発生、津波によって多くの犠牲者が出た。都での疫病に加えて、東国での自然災害が人々の不安を募らせた。朝廷は国の数である66本の鉾(ほこ)に諸国の悪霊を宿らせたのち、その汚れを払う「御霊会」を再び行った。この時の祭礼が、のちに夏の恒例行事となる。牛頭天王を祀る八坂神社の祭礼、すなわち「祇園祭」の始まりである。

京都の夏の風物詩、祇園祭の山鉾(やまほこ)巡行(京都市下京区=2018年撮影、時事)
京都の夏の風物詩、祇園祭の山鉾(やまほこ)巡行(京都市下京区=2018年撮影、時事)

京都では市民の信仰や伝統行事の中に、疫病と戦った千年以上も前の先人たちの記憶が刻まれている。多くの人を集める祭礼の由来を学ぶことで、私たちは過去に生きた人々の経験を共有し、彼らの苦難に思いをはせ、時空を超えて共感することができる。

何度も戦火で焼き尽くされた都市

京都はさまざまな疫病や災害を克服しつつ、長らく日本文化の中心地という役割を担ってきた。この都市の歴史を、その始まりにまでさかのぼろう。

桓武天皇が長岡京からの遷都の詔(みことのり)を発したのは794(延暦13)年のことだ。新しい都は、中国の長安や洛陽などの都城を手本として計画された。幅員約84メートルの朱雀大路(しゅじゃくおおじ)を南北軸として、左右対称に格子状の街路網を整える。その北端に御所と官庁街を含む「大内裏(だいだいり」を建設した。南端には羅城門(らじょうもん)を置き、その近傍に東寺、西寺の伽藍(がらん)を建立した。市街地は、40丈(約120メートル)を四辺とする「町」を単位として構成。人々の生活を支える物品の流通を図るべく、東市、西市の市場が設置された。

新しい都は「平安京」と命名された。一説にこの都は、中国から伝来した風水に基づき、四方を霊獣に守護されている「四神相応」の地に建設されたという。すなわち北にある船岡山を空想上の霊獣である「玄武」にたとえ、東辺を流れるように改修した鴨川を「青龍(せいりょう)」、西に伸びる大道である山陰道を「白虎(びゃっこ)」、南に水をたたえた巨椋池(おぐらいけ)を「朱雀」に見立てて、その中心に都を築いたのである。

平安京の名称には「平らかで安らか」、すなわち平和な世が継続してほしいという思いが託されている。しかしその名に反して、しばしば戦火に焼かれた。1467年から77年まで続いた応仁の乱にあっては、市街地が主な戦場になる。その後、16世紀末には天下統一を進めていた豊臣秀吉によって、聚楽第(じゅらくだい)と称した居城を中心とする城塞(じょうさい)都市への改造が行われ、寺院街の再編も断行された。この時に整備された市街地が、今日の京都の原型となる。

2012年に京都市上京区で発見された「聚楽第」本丸の石垣(京都市上京区、時事)
2012年に京都市上京区で発見された「聚楽第」本丸の石垣(時事)

近世には幾度もの大火に見舞われた。1788年の「天明の大火」では、二昼夜にわたって市街地が紅蓮(ぐれん)の炎に包まれた。さらに1864年に勃発した「禁門の変」では、長州藩と会津藩との武力衝突の中で兵が放った火が市街地に燃え広がり、3万戸が消失した。

戦火や災害に遭い、そのたびごとに復興し、都市はその姿を改めてきた。その結果、1869(明治2年)に東京奠都(てんと)が行われるまで、1100年にわたって日本の首都であり続けた。武家によって統治された幕府が遠く東国の鎌倉や江戸に移された時代にも御所はこの街に置かれ、日本の政治的な中心という地位を保ち続ける。

人々は「平安京」をいつからか「京」の一文字で記し、「みやこ」と呼ぶようになった。誰もが日本で唯一の政治的、文化的な中心地であることを信じて疑わなかったのだろう。

歴史的文化財の宝庫

京の都では、さまざまな文化が生まれた。公家や武家の儀礼に由来する文化、さらには庶民によって育まれた生活文化など、その豊かさ、多様さと洗練の度合いは世界でも稀(まれ)なものだ。

もっとも市街地の中心部は幾度もの火災で焼かれたため、ここで生まれた文化的所産の精華は、京都市の郊外にこそ見いだされる。各時代の支配者が建てた別業(なりどころ=貴族の別荘)、離宮や寺院などは周縁部に点在し、建築や庭園の造作、仏教彫刻や障壁画などの美術に加えて、茶道や華道などの芸術に至るまで、各時代の栄華の名残を今日に伝えている。

古代に渡来した人々の活動拠点となった太秦(うずまさ)には弥勒菩薩像で知られる広隆寺があり、嵯峨野には嵯峨天皇の離宮を改めた大覚寺がある。現在、文化施設が集積している岡崎は、白河天皇が建立した法勝寺に代表される寺院群に由来する。

宇治には、中国文化を日本独自の文化に昇華させた「国風文化」の象徴である平等院鳳凰堂(ほうおうどう)がある。優雅な建築様式を備え、日野薬師として知られる法界寺阿弥陀堂とともに、末法思想が流行した平安時代末期に、いかに貴族たちが阿弥陀信仰に熱心であったかを知ることができる。

平安時代に建造された阿弥陀堂の代表的な遺構・平等院鳳凰堂(京都府宇治市=2006年撮影、時事)
平安時代に建造された阿弥陀堂の代表的な遺構・平等院鳳凰堂(京都府宇治市=2006年撮影、時事)

室町時代になると、3代将軍足利義満は武家文化と公家文化の融合を図り、「北山文化」を開花させた。池に美しい姿を映す鹿苑寺(ろくおんじ)金閣は、伝統的な住宅様式であった寝殿造りと、新たに渡来した禅宗の寺院建築様式を折衷したものだ。

鹿苑寺金閣。足利義満が西園寺家から譲り受けた別邸を遺命により寺とした(京都市北区=2014年撮影、時事)
鹿苑寺金閣。足利義満が西園寺家から譲り受けた別邸を遺命により寺とした(京都市北区=2014年撮影、時事)

それに対して8代将軍足利義政による「東山文化」の象徴が慈照寺銀閣である。回遊式の庭園には、書院造の原型を示す東求堂(とうぐどう)などがある。また曼殊院(まんじゅいん)、桂離宮(かつらりきゅう)、修学院離宮など、数寄屋建築の神髄も京都の周辺部に数多く残されている。

慈照寺銀閣。足利義政が山荘として造営した東山でんを遺命により寺とした(京都市左京区=1998年撮影、時事)
慈照寺銀閣。足利義政が山荘として造営した東山でんを遺命により寺とした(京都市左京区=1998年撮影、時事)

京で暮らす人たちは、おおむね秀吉が城塞に改造した市街地を、平安京が範にとった「洛陽」にちなんで「洛中(らくちゅう)」と呼び、その外部に広がる田園や近郊の山々までを「洛外(らくがい)」と称した。「洛中洛外」の四文字で、町家が集まる市街地と、豊かな田園の双方、すなわち京都の地理的な全体像を意味することができる。

先人たちはどの時代にあっても、外来文化を常に和風に改め、日本独自のものとして受容してきた。さまざまな文化を混合し、折衷し、新奇なものを創造しつつ、時間の経過を経て、それを京都の伝統という文脈に取り込んできた。各時代の歴史的・文化的営為が「洛中洛外」と総称される空間と時間の中にふんだんに埋め込まれている(後編に続く)。

バナー写真=室町時代の京都の市中とその郊外の名所などが俯瞰(ふかん)的に描かれた洛中洛外図(アフロ)

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