台湾基隆と高崎の絆〜顔家をめぐる新著が解き明かした日台秘話

歴史 国際交流 文化

一青 妙 【Profile】

作家・一青妙の父方は台湾五大家族と呼ばれた顔家で、戦前から戦後にかけて台湾北部の港・基隆を地盤に鉱山ビジネスを展開していた。妙の祖父・顔欽賢と群馬県高崎市とのつながりを解き明かした『石坂荘作と顔欽賢―台湾人も日本人も平等に―』(上毛新聞社)がこのほど刊行された。知られざるエピソードを数多く掘り起こし、日台交流の貴重な資料となりそうだ。

祖父が本のタイトルに

『石坂荘作と顔欽賢——台湾人も日本人も平等に——』

祖父が書籍のタイトルになっていることに、なんとも言えない誇らしさを感じ、白と黒を基調としたシックな表紙を幾度となく指でなぞった。

「石坂荘作と顔欽賢 台湾人も日本人も平等に」書影(上毛新聞社)
「石坂荘作と顔欽賢 台湾人も日本人も平等に」書影(上毛新聞社)

著者の手島仁さんは群馬地域学研究所代表理事を務める。群馬県前橋市に生まれ、高校教諭、群馬県史編纂室主事、群馬県立歴史博物館学芸員などを経験し、群馬学を提唱している郷土史の研究者だ。面識はなかったものの、昨年の春、互いの共通の知人で、日本統治時代に台南市長を務めた羽鳥又男のご子息・羽鳥直之さんを通し、手島仁さんから一通のメールが届いた。

「私は、石坂荘作と顔欽賢に関する本を書きたいと思っています。これから本格的な調査を始めますが、顔欽賢氏について、自叙伝や回顧録など参考文献などございましたらご教示いただけますと、ありがたく存じます」

私から提供できた資料はほとんどなかったが、それから一年、本当に祖父の名前が入った本が完成した。内容は予想を超えて詳細を極めたもので、高崎に祖父が向かった理由など、私の知らないことがたくさん書かれていた。

一族の意向で高崎へ向かった祖父

かつて「基隆といえば顔家」という時代があった。その時代を象徴するように、「基隆から台北まで全部顔家の土地だ」「顔家の庭の広さは迷路のようだ」のような噂がまことしやかに語られた。

実際、顔家は基隆を拠点として、石炭や金の採掘を行い、多角経営に乗り出して成功した一族だ。祖父の生家であった顏家の邸宅「陋園」は基隆の中心にあり、その広さは約6万坪ほどもあった。松や灯籠、池のある日本庭園は、台湾三大庭園の一つに数えられるほど美しいとの評判だった。地元の人々の憩い場としてや、学生たちの遠足地としても開放され、宮家の訪台時の宿泊場所にも指定され、私は、当時を知る人からは「顔さんのお庭でよく遊びました」と言われることも少なくない。

残念ながら「陋園」は終戦直前の空襲に遭い、私が直接訪れることはかなわないが、人々の心に残る場所として語り継がれていることはありがたいことだ。

祖父は一族の意向で小学生より内地の日本に留学に送り出された。群馬県立高崎中学に学び、その後、京都の立命館大学を卒業している。なぜ、東京から高崎へ移り、さらに京都の立命館大学を選んだのか。祖父の日本学歴は謎だらけだった。

本書によれば、祖父の高崎行きは、台湾総督府財務局長の経験があり、群馬県知事を務めていた中川友次郎が勧めたという説と、本書の主役である高崎出身の実業家・石坂荘作が勧めたという説の両方がある。

さらに、立命館への進学について、台湾銀行の頭取を務めた中川小十郎(中川友次郎とは無関係)が深く関わっていたことも本に書かれていた。祖父の父、つまり曽祖父である顔雲年は台湾銀行頭取時代の中川小十郎と親しくなった。顔家や林家など台湾の有力家族は、当時、立命館の大学昇格にあたって多額の寄付をしていたらしい。その縁もあって、祖父だけではなく、祖父の弟2人も立命館に進学している。台湾人脈で知己を得た人々を頼った祖父の日本留学だったようだ。

石坂荘作が創設した「基隆夜学会」所在地。現在は「私立光隆高級家事商業職業学校」として顔家が運営している
石坂荘作が創設した「基隆夜学会」所在地。現在は「私立光隆高級家事商業職業学校」として顔家が運営している

次ページ: 福田赳夫元首相との友情

この記事につけられたキーワード

歴史 高崎市 台湾 日本統治時代 基隆

一青 妙HITOTO Tae経歴・執筆一覧を見る

女優・歯科医・作家。台湾人の父と、日本人の母との間に生まれる。幼少期を台湾で過ごし11歳から日本で生活。家族や台湾をテーマにエッセイを多数執筆し、著書に『ママ、ごはんまだ?』『私の箱子』『私の台南』『環島〜ぐるっと台湾一周の旅』などがある。台南市親善大使、石川県中能登町観光大使。『ママ、ごはんまだ?』を原作にした同名の日台合作映画が上映され、2019年3月、『私の箱子』を原作にした舞台が台湾で上演、本人も出演した。ブログ「妙的日記」やX(旧ツイッター)からも発信中。

このシリーズの他の記事