台北、台中、阿里山、澎湖・・・台湾の風土を唄った『台湾周遊唱歌』

歴史

片倉 佳史 【Profile】

1910年2月20日、台湾である歌が発表された。『台湾周遊唱歌』と呼ばれるこの曲は、台湾各地の風物を歌詞に盛り込み、台湾全土の地理や歴史が理解できるよう、工夫が施されている。

日本の音楽教育の黎明期

『台湾鉄道唱歌』が作られた背景を考えてみると、そこには「唱歌教育」、つまり、音楽を用いて子供たちを育てるという試みが見える。

清国統治時代、台湾には私塾としての学堂はあったものの、公教育の概念はなく、学校教育は日本が持ち込んだものだった。台湾総督府は各地に学校を設け、制度を整えていったが、その中心にいたのが民政局の初代学務部長・伊沢修二(いさわしゅうじ)だった。

伊沢は日本に音楽教育を持ち込んだ人物として知られる。ジョン万次郎に英語を学び、1875年から3年間、米国留学を果たしている。帰国後に西洋音楽を日本に伝え、『小学唱歌集』を編纂(へんさん)。1888年には東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)の校長となった。

『台湾周遊唱歌』の作曲を担当したのは高橋二三四(たかはしふみよ)、作詞は宇井英(ういはなぶさ)という人物であった。高橋は1896年に東京音楽学校(後に新制東京芸術大学音楽学部の構成母体となった)を卒業し、伊沢の誘いに従って台湾へ渡った。同年9月には台湾総督府国語学校の教員となり、台湾で最初の音楽教師となっている。

台湾の教育制度を整えたのは日本だったが、当初から唱歌を用いて教育を行っていたことは興味深い。伊沢は日本の音楽教育の創始者であり、教え子の高橋も音楽教育の黎明期に活躍した人物である。台湾の唱歌教育は当時、最前線にいた2人が創りあげたと言っても過言ではない。

一方、作詞を担当した宇井は、日本語学と国語教育のほか、台湾の郷土文化に強い関心を持っていた。1915年には台湾の伝説・伝承をまとめた『台湾昔噺(むかしばなし)』を刊行しており、学校教育でも使用できるよう、平易な言葉で分かりやすく記されている。宇井も高橋と同様、日本語を教える要員の育成を目的とした「国語学校」の教員だった。

なお、作曲者は杉山文悟(すぎやまぶんご)という人物で、高橋二三四は編者であるという説も存在する。杉山は明治期の教科書編纂者であり、『台湾教科用書国民読本』の編者でもあった。後に台湾総督府図書館の職員となり、台湾各地の昔話を記録することに心血を注いだ人物でもあった。

台湾周遊唱歌~際立った自然景観

(阿里山)

大森林の阿里山(ありさん)は  これより数里奥にあり
枝(えだ)を交ふる木々(きぎ)の蔭  昼猶(なお)暗くものすごし

→無尽蔵と謳われた台湾の森林。阿里山はヒノキの産地。阿里山鉄道はこの時点では未開通。

阿里山(筆者所蔵写真絵葉書より)
阿里山(筆者所蔵写真絵葉書より)

(臨海道路)

これより沿岸二十余里  幾千尺(いくせんじゃく)の断崖が
海にせまりて聳(そび)え立ち  船を寄すべきところなし

→ギルマルド断崖に沿って走る「臨海道路」。現在、「蘇花公路」となっている。

(日月潭)

日月潭(じつげつたん)の勝景(しょうけい)は  蓬莱(ほうらい)山もよそならず
緑のかげには鳥歌ひ  瑠璃(るり)の水には魚(うお)躍る

→台湾中部の景勝地。読みは「じつげつたん」。1935年、東洋最大の水力発電所が完成した。

(台北)

四面(しめん)は山にかこまれて  地勢京都にさも似たり
おのずからなる城壁は  げに萬世のかためなり

→四方を美しい山に囲まれた台北。計画的に整備され整然とした家並みを誇った。

台北(筆者所蔵写真絵葉書より)
台北(筆者所蔵写真絵葉書より)

一世紀前の台湾を歌詞から振り返る

『鉄道唱歌』は日本各地の知識を培養し、郷土意識と国民意識の両者を高める要素を含んでいた。そこに軽快な旋律が加わることで、楽しく学べる教育的な側面も加わった。

『台湾周遊唱歌』も台湾の地理を知らしめる目的があり、やはり親しみやすさと唄いやすさを兼ね備えている。そして、伊沢や高橋が提唱した唱歌教育に連動している。

伊沢が日本に持ち込んだ唱歌教育の試みは、台湾の地でもほぼ同時期に高橋が発展の糸口を見出した。『鉄道唱歌』は国策として推進されていた側面を持つが、『台湾周遊唱歌』もまた、台湾総督府のサポートを得て定着していった。

台湾の地において唄われ、親しまれた『台湾周遊唱歌』。その歌詞をたどってみると、一世紀を経た今もなお、台湾という土地の息吹が感じられ、台湾の歴史的歩みをうかがい知ることができる。

同時に、伊沢や高橋といった教育者たちが思い描いた唱歌教育の理想にも触れられる。日本統治時代初期の台湾。そして、日本音楽教育の黎明期。作り手たちの想(おも)いを感じてみたいところである。

バナー写真=劉銘傳の時代に産声を上げた台湾の鉄道。その後、日本統治時代に路線が拡充され、台湾の発展を支えた(筆者提供)

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片倉 佳史KATAKURA Yoshifumi経歴・執筆一覧を見る

台湾在住作家、武蔵野大学客員教授。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)、『台北・歴史建築探訪~日本が遺した建築遺産を歩く』(ウェッジ)、『台湾旅人地図帳』(ウェッジ)、『台湾のトリセツ~地図で読み解く初耳秘話』(昭文社)等。オフィシャルサイト:台湾特捜百貨店~片倉佳史の台湾体験

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