「私たち」の問題として処理水の海洋放出を考える : 福島第1原発事故から9年半、やまない風評
社会 環境・自然 経済・ビジネス 医療・健康 食- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
敷地の限界、処理水を海洋放出へ
福島第1原子力発電所の構内にある建物の非常階段を昇ると、眼下には異様な光景が広がっていた。かつて首都圏の電力需要を支えていた発電所の敷地は、今、タンク置き場の様相を呈している。
2011年の東日本大震災で爆発事故を起こした原発の原子炉内で溶けて固まった核燃料(燃料デブリ)はいまだに熱を発しており、水をかけて冷やし続けなければならない。さらに、原子炉建屋などに地下水や雨水などが入り込んでくる。こうした水は高濃度の放射性物質を含む汚染水となる。
東京電力では、吸着装置を使って汚染水に含まれる放射性物質の大部分であるセシウムとストロンチウムを重点的に取り除いた上で、多核種除去設備(Advanced Liquid Processing System=通称ALPSアルプス)を通して、トリチウム以外の大部分の放射性物質を取り除いた状態でタンクに溜めているのだ。タンクは高さ10メートル超の鋼鉄製。限られたスペースを有効に活用するため、間隔わずか1.5メートルのハチの巣状にぎっしり配置している。2020年10月時点で、敷地内のタンクは1000基、約123万トンの処理水が保管されている。マンションの3階天井に相当する高さのタンクが林立する様はなんともいえない圧迫感がある。
現在、1日に発生する汚染水は約140トンで、1週間で巨大タンク1基が満水となるペースだ。東電では、敷地内に137万トンまで溜めるスペースを確保しているが、それも2022年夏ごろには限界を迎える。一方、東電は21年から原子炉内の燃料デブリの取り出し開始を目指しており、廃炉作業が本格化する予定だ。廃炉のためにはさまざまな試料の分析用施設や、資機材の保管施設、事故対応設備の建設が必要となる。また、そのための人員や車両の出入りもあるため、敷地内にさらなるタンクを増設することは困難だという。
処理水を溜めるスペースがなくなることは早い段階から想定されていた。2016年11月から処分方法の検討を進めてきた経済産業省の小委員会では、海洋放出、水蒸気放出、地層注入など複数の案を比較した上で、今年2月に「技術的に実績がある水蒸気放出及び海洋放出が現実的な選択肢である」との提言をまとめた。地元の農林水産業者や費者団体は反対意見を表明しているが、政府は近く、小委員会の提言に沿って「海洋放出」を正式に決定する。
「もっちゃん」と「てっちゃん」のこと
「海洋放出」と聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは、「もっちゃん」と「てっちゃん」のことだった。
私が2人に初めて会ったのは、震災から3年後の2014年3月。福島県が首都圏の消費者を招いて東京駅近くのイタリアンレストランで開催したイベント《ふくしまの海産物 復活の狼煙(のろし)を東京丸の内から!》だった。
福島県の沿岸は寒流と暖流がぶつかる絶好の漁場。激しい海流で身が引き締まった魚は、古い地名の常陸国・磐城国にちなんで「常磐もの」と呼ばれ、プロの料理人や築地市場の目利きからも一目置かれていた。しかし、原発事故直後に福島県漁連は操業自粛を決定。翌2012年6月から漁法、魚種、海域を限定しながら「試験操業」として漁を再開、県の放射性物質検査に加えて、漁協独自の検査も実施し、安全性確保に最大限の努力をしても、消費者の理解がほとんど得られない時期だった。
県の担当者は、いかに厳格な安全管理の下で海産物を出荷しているか、データを示しながら真剣に説明。参加者も「応援すべき被災地」の話に神妙に耳を傾けていた。そんな堅苦しい空気を一挙に緩めたのが、相馬の漁師「もっちゃん」こと菊地基文さんと、水産仲買人の「てっちゃん」こと飯塚哲生さんだった。
やんちゃ坊主がそのまま大人になったような2人は、「被災者」という言葉がそぐわないくらい底抜けに明るかった。漁港のある町で育った子ども時代の思い出や、漁でどんなにヘトヘトになっていても、船上で1日4食のまかない飯をつくる“まんま炊き”を課せられる若手の苦労を掛け合い漫才のように繰り広げ、会場は何度も笑いに包まれた。地元で「どんこ」と呼ばれているエゾアイナメを手際よくさばき、まかない飯であるツミレ汁を作って、参加者に振る舞ってくれた。
肝も一緒にたたいたツミレはふわっと柔らかく、濃厚でうっとりするほど旨さがあった。テーブルを回って、「ね、うまいっしょ?」と誇らしげに笑う2人に、参加者は「被災者を応援」するのではなく、すっかり「相馬ファン」になってしまった。
ただ、この時の「どんこ」は相馬産ではなく北海道産だった。放射線の基準値を超える恐れがあるため試験操業の対象魚種には含まれておらず、相馬では水揚げができなかったのだ。イベントの最後、菊地さんが「これからも相馬で漁師を続けていきたい。いつか、相馬のどんこを食べにきてほしい」と絞り出すように言っていたのがいまだに忘れられない。
その翌年の2015年秋、菊地さんと飯塚さんは、地元の仲間たちと季刊の情報誌『そうま食べる通信』を創刊。相馬市を中心とする福島県の浜通り地方(沿岸部)の一次生産者を毎号1人ずつ取り上げ、丁寧な取材で食べ物と生産者の魅力を伝える取り組みをスタートした。
実は、私も『そうま食べる通信』の購読者の一人だ。年に数回は読者ツアーに参加して相馬市を訪問するようになった。
何度も現場を訪ねるうちに、農業生産者も漁師も水産加工業者も、基準値を上回る食材が市場に出ないよう細心の注意を払っていること、風評を払しょくするために、震災前以上の価値を生み出す努力と工夫を積み重ねていることが分かった。「徹底的なチェックを経て市場に出る福島の食材こそ安全な食材」だと理解できた。
菊地さんや飯塚さんだけではない。福島県では、多くの一次生産者や加工業者が、原発事故によってどん底に突き落とされ、10年間かけて一歩ずつ消費者との距離を縮めてきたのだ。処理水の海洋放出によって、積み重ねた努力がリセットされてしまうとすれば、あまりにも残酷だと思った。
「処理水」とはどんな水なのか?
9月に福島第1原発を視察した際に、ALPSでの汚染水の浄化処理も見学した。現在、原発構内の96%は特別な装備が必要のないレベルまで放射線量が下がっているが、汚染された水を扱うALPS内部の取材は防護服に全面マスクの着用が求められる。
ALPSでの水処理の工程は、まず、汚染水に薬液を加えてコバルトやマンガンなどを沈殿させて取り除いた上で、7種類18塔の吸着塔を通す。それぞれの塔内には活性炭やイオン交換材料が充てんされており、放射性物質を吸着して除去できるという。
ALPSを通しても放射性物質を完璧に取り除けるわけではないが、原子力施設から放射性物質を環境へ放出する場合の国が定める基準は満たすことができる。例えば、ストロンチウムはALPSを通すことで、濃度は10億分の1になる。
写真左の水はALPSを通した「処理水」で、線量計を近づけると目盛りの「1」を指した。右は家庭用風呂の温浴効果を高めるなど健康・美容グッズとして市販されている「ラジウムボール」が入ったプラスチック容器で、線量計のメモリは「3」を指している。
これをもって「処理水は絶対安全」とは言い切ることはできないにしても、ネット通販で購入することができ、通常の荷物として宅配便で運ばれる「ラジウムボール」と比べて、とてつもなく危険なものとも思えなかった。
リテラシーを高める努力
現在の技術では、トリチウムは除去することができないが、そもそもトリチウムは自然界にも存在し、水蒸気や雨水、水道水にも含まれる。放射線のエネルギーが弱いため、皮膚を通過して身体の内部を被ばくさせることはなく、口から体内に取り込んでも、水と同じように対外に排出され、蓄積されることはないという。
政府は、海洋放出する際には、トリチウムが国の基準の40分の1の濃度になるまで海水で希釈した上で、30年間かけて少しずつ放出する方針だ。「40分の1」は、世界保健機関(WHO)による飲料水の基準となる濃度をさらに下回る濃度を意味する。
もちろん、「事故を起こした東京電力の説明は信用できない」「メディアも東電にだまされている」と考える人もいるだろう。そこで、広島大学原爆放射線医科学研究所の保田浩志教授にトリチウムの海洋放出に伴う影響について質問すると、「トリチウムは、自然界においても宇宙線によって生成される核種で、第2次世界大戦後には核実験や原子力発電等に伴い広く環境中に放出されてきた。しかし、それらによる人体への健康影響は確認されていない」という答えが戻ってきた。
「トリチウムは多くがHTO(H2OのHの1つがT=トリチウムに入れ替わっている)の形態で存在し、水とほとんど同じ挙動をするため、海洋放出した場合は速やかに拡散し、魚介類に濃縮されることもないので、海産物などを介して摂取するトリチウムの量は、元来自然界から摂取している放射性核種の量に比べて無視できるレベルになる。また、トリチウムから出される放射線(ベータ線)はエネルギーが低く、すぐに尿や汗で排せつされて体内に留まる時間も短いため、トリチウムの摂取がもたらす健康影響は他の放射性核種に比べてごく小さい」そうだ。
ただ、保田教授は「種類や量(薄める度合い)に限らず、“放射性物質を人為的に環境へ放出する”という行為がもたらす心理的・社会的影響には配慮が必要である。特に漁業を営んでいる住民には生計に大きな影響を与える可能性があるので、十分な説明と入念な風評被害対策を行うことが望まれる」と指摘する。
まさに、海洋放出の最大の問題点はここなのだろう。
漁師の菊地さんも「放出するか、しないかの前に、国や有識者は、国民の理解を得るための努力をもっとしてほしかった」と言う。「トリチウムを海洋放出するのは福島が初めてではない。既に世界中の原発が海に排出している。消費者も、そういう事実を知らずに印象に流されるのではなく、公表されている情報を集め、自分の目で見て、頭で考えて判断してもらいたい」
福島第1原子力発電所で発電した電気は、首都圏に送られ、巨大都市の電力需要を満たしてきた。原発事故で大きな痛手を負ったのは、そこで発電された電気を使っていなかった福島県の人たちだった。だから、処理水の海洋放出は首都圏から遠く離れた場所のことではなく、首都圏に住み電気を使っていた「私たち」にも関係することなのだと思う。
無責任に風評を拡大する一端を担ったり、「なんとなく怖いから」と福島県産品を忌避するのではなく、立ち止まって考える、情報を収集する努力をした上で、正しく恐れる理性を持ちたい。
最後に「てっちゃん」と「もっちゃん」の言葉を紹介する。私は、「消費者も電気のユーザーも一緒に考えてほしい」というメッセージとして受け取った。
飯塚哲生さん : 「海洋放出は結論ありきの出来レースだったんだろうなというのが正直な印象。自分はそこに振り回されたくない。10人中3人は、とにかく福島のものは食べたくない、話も聞く気がないという人たちだけれど、自分は残る7人の人に対して精一杯アプローチして、伝える努力をしてきた。海洋放出でそれが6人、5人に減ってしまうとしても、自分がやることは変わらない」
菊地基文さん : 「震災以降、全てが風評ありきだから、海洋放出が決まったところで、何かが大きく変わるわけではない。風評を吹き飛ばすくらいの新しい仕組みを作りたいし、地域の仲間と最高に面白いことをしたい。世界は動かせないかもしれないけれど、自分の子どもの心は動かしたいよ」
汚染水の処理状況、廃炉への道筋については東京電力、経済産業省がウェブサイトを通じて情報を公開している。専門知識がなくても理解できるようなデータやグラフィックを使った分かりやすい記述になっている。住民の健康や安全を守る立場から、福島県も県内の多くの地点でのモニター情報を公開している。
- 東京電力 : 処理水ポータルサイト
- 経済産業省 : 廃炉・汚染水対策ポータル
- 福島県 : 各種環境放射線モニタリング情報公開のポータル
- 福島第1原子力発電所 : 廃炉情報誌
バナー写真 : 処理水タンクが並ぶ福島第1原子力発電所構内。タンクの向こう側に1号機~4号機が見える (バナー写真と記事中の発電所構内の写真はニッポンドットコム 土師野幸徳撮影)