台湾引揚船「栄丸」の悲劇から75年〜沖縄と台湾で始まる戦争体験の共有

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松田 良孝 【Profile】

1945年11月1日、台湾で終戦を迎えた沖縄出身者が乗りこんでいた引揚船「栄丸」が基隆沖で遭難した。沖縄県宮古地方の出身者を中心に100人以上が犠牲になったこの栄丸事件で、当時8歳だった洲鎌久人さん=宮古島市下地上地出身=は両親と姉弟6人を失い、家族の中でただひとり生き残った。近年、沖縄出身者の台湾引揚は、専門家が研究成果を発表したことを機に関心が広がっている。このなかで、栄丸事件は「沖縄戦」など戦争体験について、沖縄と台湾を結ぶ重要なエピソードになるかもしれない。

高波で海に投げ出される

栄丸の船内は引き揚げを急ぐ人で身動きが取れないほどだった。洲鎌さんは「基隆の港を出た途端に、もう、すごかった。頭の上から波が来るんだもん」という荒波に遭遇した。甲板にテントを張るために立ててあったポールに、洲鎌さんはしがみついていたが、海に投げ出された。「船員でさえ亡くなっている。あれだけ波が高かったらどうしようもない」と振り返る。

「波に揉まれて、海水も相当飲んだ。そしたら、日本の兵隊さんが波に流されそうになったところを引き上げてくれたんです。それで、立ってみたら、こんなもんですよ。全然深くない」

そこは腰の高さほどの深さしかなかった。辺りはすっかり暗くなり、遭難で気が動転してもいた。

私は2007年4月、栄丸事件の様子を知っているという地元の台湾人から話を聞いたことがある。故・張添茂さん(1927年生)という男性で、打ち上げられた栄丸の船上で遺体がそのままになっている様子を目撃していた。「ロープが巻き付いたようになって死んでいた」という。

海岸に打ち上げられた遺体は多く、担架で1カ所に集めた後、薪とともに積み上げて焼いた。遺骨を1人ずつ分けることができず、張さんは「とても気の毒だった」と語った。救助も手伝っている。「16、7歳ぐらいの娘が岩の上に打ち上げられていたので、兄と一緒に引き揚げた。そうしないと、また波にさらわれてしまいそうだった」。張さんと兄は板を担架代わりにして娘を自宅に運び、自宅では母親が着替えなどをさせた。

栄丸で遭難した人たちを救助した故・張添茂さん(右)=2007年4月6日、台湾基隆市の外木山海岸
栄丸で遭難した人たちを救助した故・張添茂さん(右)=2007年4月6日、台湾基隆市の外木山海岸

凄惨な光景

当時17歳だった砂川金三さん=沖縄県宮古島市平良西里出身=は、進学のために台湾へ渡ったものの、知人の紹介で基隆要塞司令部に勤務し、そこで終戦。疎開で台湾に来ていた親類2人と栄丸に乗り込んだ。出港して間もなくエンジンが停止した栄丸は、港の外へ出ると、季節風で西に流されていったという。猛烈に揺れる甲板で、何人かが松明(たいまつ)を振り始めた。陸の方でも松明が揺れるのが見えたが、「沈没する前にぼくらは波にさらわれたんです」。沖へ流されたり、岸に打ち寄せられたりを繰り返した後、救助に来ていた旧日本兵にようやく引き上げられた。翌日は漂着した遺体の収容作業を手伝っている。そこで目にしたのは凄惨(せいさん)な光景である。

「あちこちみんなはらわたが出たり、頭がぐにゃぐにゃになったり、もう顔も判別できないような感じ。まともには見られない状態だったんです」

栄丸が漂着した基隆の外木山海岸はごつごつとした岩が続く場所だ。栄丸から振り落とされた人たちは波にもまれるうちに岩に当たり、それで亡くなったり、遺体が傷ついたりしたのではないかと砂川さんはみている。

栄丸で遭難した時の様子を語る砂川金三さん=9月9日、沖縄県浦添市の自宅
栄丸で遭難した時の様子を語る砂川金三さん=9月9日、沖縄県浦添市の自宅

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松田 良孝MATSUDA Yoshitaka経歴・執筆一覧を見る

石垣島など沖縄と台湾の関係を中心に取材を続ける。1969年生まれ。北海道大学農学部農業経済学科卒。十勝毎日新聞、八重山毎日新聞を経て、2016年7月からフリー。2019年台湾政府外交部のフェロー。著書に『八重山の台湾人』、『台湾疎開』、『与那国台湾往来記』(いずれも南山舎)、共著に『石垣島で台湾を歩く:もうひとつの沖縄ガイド』(沖縄タイムス社)。第40回新沖縄文学賞受賞作の小説『インターフォン』(同)もある。さいたま市出身。ブログ「台湾沖縄透かし彫り」

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