台湾引揚船「栄丸」の悲劇から75年〜沖縄と台湾で始まる戦争体験の共有
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高波で海に投げ出される
栄丸の船内は引き揚げを急ぐ人で身動きが取れないほどだった。洲鎌さんは「基隆の港を出た途端に、もう、すごかった。頭の上から波が来るんだもん」という荒波に遭遇した。甲板にテントを張るために立ててあったポールに、洲鎌さんはしがみついていたが、海に投げ出された。「船員でさえ亡くなっている。あれだけ波が高かったらどうしようもない」と振り返る。
「波に揉まれて、海水も相当飲んだ。そしたら、日本の兵隊さんが波に流されそうになったところを引き上げてくれたんです。それで、立ってみたら、こんなもんですよ。全然深くない」
そこは腰の高さほどの深さしかなかった。辺りはすっかり暗くなり、遭難で気が動転してもいた。
私は2007年4月、栄丸事件の様子を知っているという地元の台湾人から話を聞いたことがある。故・張添茂さん(1927年生)という男性で、打ち上げられた栄丸の船上で遺体がそのままになっている様子を目撃していた。「ロープが巻き付いたようになって死んでいた」という。
海岸に打ち上げられた遺体は多く、担架で1カ所に集めた後、薪とともに積み上げて焼いた。遺骨を1人ずつ分けることができず、張さんは「とても気の毒だった」と語った。救助も手伝っている。「16、7歳ぐらいの娘が岩の上に打ち上げられていたので、兄と一緒に引き揚げた。そうしないと、また波にさらわれてしまいそうだった」。張さんと兄は板を担架代わりにして娘を自宅に運び、自宅では母親が着替えなどをさせた。
凄惨な光景
当時17歳だった砂川金三さん=沖縄県宮古島市平良西里出身=は、進学のために台湾へ渡ったものの、知人の紹介で基隆要塞司令部に勤務し、そこで終戦。疎開で台湾に来ていた親類2人と栄丸に乗り込んだ。出港して間もなくエンジンが停止した栄丸は、港の外へ出ると、季節風で西に流されていったという。猛烈に揺れる甲板で、何人かが松明(たいまつ)を振り始めた。陸の方でも松明が揺れるのが見えたが、「沈没する前にぼくらは波にさらわれたんです」。沖へ流されたり、岸に打ち寄せられたりを繰り返した後、救助に来ていた旧日本兵にようやく引き上げられた。翌日は漂着した遺体の収容作業を手伝っている。そこで目にしたのは凄惨(せいさん)な光景である。
「あちこちみんなはらわたが出たり、頭がぐにゃぐにゃになったり、もう顔も判別できないような感じ。まともには見られない状態だったんです」
栄丸が漂着した基隆の外木山海岸はごつごつとした岩が続く場所だ。栄丸から振り落とされた人たちは波にもまれるうちに岩に当たり、それで亡くなったり、遺体が傷ついたりしたのではないかと砂川さんはみている。
犠牲者の数は把握困難
宮古島では戦後間もなくすると、台湾にとどまっていた島出身者のために引き揚げ船の運航が始まっている。台湾で終戦を迎えた宮古の人たちは、治安の不安定化や生活への不安から引き揚げを急いでいた。こうした状況の中で栄丸は基隆を出港したのである。
栄丸事件については、「沖縄県史」などが相応のページを割き、体験者による個人史も出版されている。こうした記録からは、栄丸は出港直前、乗船者が多すぎるのではないかと乗組員が乗客に追及される騒ぎがあり、出港ぎりぎりまで乗ったり降りたりが繰り返されたことが分かる。こうした事情から、確たる乗船者数は戦後75年を経てもなお判明していない。「沖縄県史」は救助された人数として「23人」「32人」といった異なる数字を挙げつつ、乗船者数や犠牲者の把握が困難なことから、「100人以上が死んだ」という点以外に定説は見いだせないとしている。
疎開で台湾へ
宮古地方はもともと、日本統治期の台湾とかかわりが深い。宮古島は台北と那覇のほぼ中間に位置するが、台北など台湾の都市部は那覇に先んじて近代化が進んだため、雇用や教育の機会を求めて台湾へ渡る人が多かった。砂川さんが進学のために台湾へ行ったのはその一例といえる。
加えて、疎開があった。
沖縄を含む南西諸島からの疎開は、日本政府が1944年7月7日に開いた緊急閣議で決まった。戦後の1945年9月時点で沖縄からの疎開者は計1万2939人が台湾にとどまっていたと推定されている。このうち宮古出身者は、少なく見積もっても3人に1人以上を占め、沖縄県内から最も多くの人が台湾に疎開した場所である可能性がある。
洲鎌さんの父、秀雄さん=享年(38)=は1942年ごろから首里の沖縄師範学校で教師をしており、一家は同校近くの宿舎で暮らしていた。1944年に入ると、母、ツルさん=同(35)=の兄弟姉妹が台湾北部で暮らしていたことから、ツルさんが久人さんらを連れて台湾へ疎開した。相前後して、秀雄さんは校務で台湾に出張し、そのまま台湾で終戦。戦後は家族7人で栄丸に乗り込み、遭難事件に巻き込まれた。
台湾を視野に沖縄戦の再定義
洲鎌さんの体験は、1989年に出身地の旧下地町(現在の宮古島市の一部)がまとめた「下地町誌」に掲載されているが、これ以外はほとんど語らずにきた。それはなぜか。
洲鎌さんは筆者のインタビューに「栄丸といっても誰も知らない。(遭難事件の)生き残りというと、あれの生き残りと思っていたらしい」と語った。
「あれ」とは、1944年8月、九州へ向かっていた学童疎開船が悪石島付近で撃沈された対馬丸遭難事件を指す。アジア太平洋戦争で沖縄関係者が巻き込まれた船舶遭難の代表格だ。那覇市内にある対馬丸記念館や犠牲者を悼む「小桜の塔」に足を運べば、だれでも事件に意識を向けることができる。
これに対して、栄丸事件には慰霊の場はなく、メディアで取り上げられる機会も乏しかった。
この状況に変化が起きたのは2018年のことである。
同年3月、沖縄出身者の台湾からの引き揚げに関する研究成果が発表され、沖縄メディアが相次いで取り上げていた。現在は琉球大学講師を務める中村春菜氏(35)が指導教官とともにまとめた論考をきっかけに台湾引き揚げに関心が集まった。
「沖縄タイムス」は同年7月、洲鎌さんの体験談を掲載した。洲鎌さんがメディアに対して栄丸について語るのはこれが初めてである。沖縄メディアは、沖縄戦が終結したとされる6月23日の「慰霊の日」を中心にして特集記事や特別番組を用意する。「沖縄タイムス」は台湾引揚をテーマに連載企画を掲載し、このなかで洲鎌さんを取り上げたのである。地方局の琉球放送(RBC)は約1年間洲鎌さんに密着し、そのドキュメンタリー番組を今年8月に放送した。栄丸事件は「もうひとつの沖縄戦」として再定義されていったのである。
宮古地方と並んで台湾とのかかわりが深い八重山地方の場合、軍の命令でマラリア発生地帯に強制移住させられ、3000人以上が犠牲になった「戦争マラリア」が戦後50年の1995年、一定の解決が図られた。日本政府が慰藉事業費として総額3億円を認め、記念館や慰霊碑が立てられ、「もうひとつの沖縄戦」として定着しつつある。筆者は2008年、戦後、疎開先の台湾から引き揚げた八重山の女性から「(台湾での疎開生活が)悲惨だったかなぁと思えば、(八重山で終戦を迎えた)この人たちはマラリアでこんなに苦しんでいらしたんだねぇと思ったら、自分たちの苦しみなんか言えなかったさ」と聞かされたことがある。語られる戦争体験がある一方で、語られない、語りにくい体験があるということである。
「沖縄戦」という大きな括りにおいては、沖縄本島での、特に中南部における地上戦の凄惨(せいさん)さを無視することはできない。その一方で、台湾への疎開や台湾からの引き揚げ、八重山の「戦争マラリア」など、地上戦以外の戦争被害に目配りをしなければ沖縄戦の全体像を把握したことにはならない。栄丸事件で生き残った洲鎌さんや砂川さんの証言に耳を傾けることで、台湾を視野に入れた「沖縄戦」というものが見えてくるだろう。
<参考文献>
- 防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」(朝雲新聞社、1968年)
- 粟屋憲太郎編「資料日本現代史3」(大月書店、1981年)
- 沖縄県教育委員会編「沖縄県史」各巻(沖縄県教育委員会)
- 平良市史編さん委員会「平良市史」各巻(平良市役所)
- 下地町役場総務課編「下地町誌」(下地町地役場、1989年)
- 松田良孝「台湾疎開」(南山舎、2010年)
バナー写真:栄丸事件で犠牲になった洲鎌さんの家族の位牌(いはい)。死亡年月日は遭難事件が発生した1945年11月1日となっている=2020年7月4日、沖縄県浦添市の自宅