台湾人元日本兵の戦後補償問題――積み残された人々の願いに真の「解決」を

政治・外交 社会 歴史

「日本を愛して、日本のために戦った」―太平洋戦争中、日本の統治下にあった台湾から「日本人」として出征したにもかかわらず、日本人としての補償を受けることができなかった台湾人兵士の存在をどれほどの日本人が知っているだろうか。戦後75年がたち、既に当事者の多くはこの世を去ってしまったが、日本人には歴史に向き合い続ける責任があるのではないだろうか。

「台日交流センター」の設立が遺族らの最後の願い

台湾人元日本兵の戦後補償問題は、戦後の日本と台湾が置かれていた状況の中で、さまざまな政治・経済的制約や事情を乗り越え、長年にわたる当事者及び日台双方の関係者、民間有志の尽力があったことは紛れもない事実である。声を上げ、運動を繰り広げてきたからこそ、戦後置き去りにされていた問題が動いたのである。

その一方で、「日本人」として国のために戦った人々が、日本人としての補償を今なお受けられていない実状は変わらない。

兄がフィリピンで戦病死し、遺族として戦後補償問題に40年以上取り組んでいる林阿貞(りん・あてい)氏は「当時は『台湾人日本兵』という呼称はなく、皆『天皇陛下の赤子』『皇軍の兵士』だった」とし、問題を「解決済み」とする日本はこのままでは「汚名を残してしまう」と憂いている。

そして、「台湾人の血と汗と涙が日本政府の金庫には眠ったまま」と主張する林氏は、本来、台湾人元日本兵らに支給されるべきお金を未来の日台交流に資する公益事業に用いるべきだと訴えている。特定弔慰金は88年に日本政府が予算を付け、日本と台湾の赤十字社を窓口に支給が行われた。また未払い給与などの財産の返還については支払予定総額として425億円を用意し、95年から受け付け業務を開始した。筆者の手元にある日台双方の複数の資料によると、期限内に申請がなかったり、申請しても却下されたり、あるいは日本政府の対応に反発し、申請を拒否した人々に本来支給されるべき金額は、少なくとも二百数十億円に及ぶと考えられる。これらがその後いかに処理されたかは不明であり、すでに存在していない可能性もある。

これまで林氏は日本の国庫にあるとされるお金を用いて、台湾に老人ホームなどの施設を設立すべく尽力してきた。しかし、もはやそれを必要とする当事者も多くが鬼籍に入ったことから、今は日本人と台湾人が共有してきた歴史を学び、交流できる「台日交流センター」をつくることが最後の願いだと話す。

林氏の自宅にはこれまでの補償運動に関する膨大な資料が保存されている(筆者撮影)
林氏の自宅にはこれまでの補償運動に関する膨大な資料が保存されている(筆者撮影)

今こそ向き合いたい日本人の「先輩」の歴史

戦後75年がたち、当事者の多くがこの世を去った今、この問題にいかに向き合うべきか。呉氏は「台湾人元日本兵ら先人の歴史を記録し、慰霊を続ける」ことの大切さを強調する。これは日本人にも求められる姿勢だろう。

当事者がいなくなれば、この問題は自然に消滅する。だが、この問題に向き合わず、歴史を忘却した時、日本は「汚名」を後世まで残すことにならないだろうか。「日本人」として日本のために戦った台湾人元日本兵が、日本人としての補償を受けられていないことは、人権・人道問題であると同時に、感謝や労いの言葉すらない冷酷な対応は日本人の民族性をも問われる問題である。

時間が過ぎるのをただ待つだけでなく、台湾人元日本兵の歴史を学び、その後の戦後補償問題からも目をそらさず、日本人の「先輩」でもある台湾人元日本兵の慰霊をしていく責務が日本にはある。林氏は今もなお台湾の政治家らに真の「解決」を目指して陳情を続けているというが、すでに過去の問題として関心を持たれることはなく、目下進展は何もないという。この問題に必要なのは、単に法的・形式的な「解決」ではなく、歴史に向き合い続けていく日本人としての「道義的責任」ではないだろうか。

バナー写真=長年、台湾人元日本兵の遺族として戦後補償問題に取り組む林阿貞氏(筆者撮影)

この記事につけられたキーワード

戦争 台湾 戦後史 戦後 戦後処理 戦後補償

このシリーズの他の記事