台湾人元日本兵の戦後補償問題――積み残された人々の願いに真の「解決」を

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「日本を愛して、日本のために戦った」―太平洋戦争中、日本の統治下にあった台湾から「日本人」として出征したにもかかわらず、日本人としての補償を受けることができなかった台湾人兵士の存在をどれほどの日本人が知っているだろうか。戦後75年がたち、既に当事者の多くはこの世を去ってしまったが、日本人には歴史に向き合い続ける責任があるのではないだろうか。

一人当たり200万円の特定弔慰金が支給決定、だが・・・

忘れ去られていた台湾人元日本兵の戦後補償問題だったが、戦後30年近くたった1974年のある出来事がきっかけで動き出した。同年12月、インドネシアのモロタイ島で、戦時中に先住民族によって編成された「高砂義勇隊」の生き残りである中村輝夫氏(アミ族名:スニヨン)が発見されたのである。横井庄一、小野田寛郎両氏に次ぐ3人目の生還者であり、世間の注目を集めた。

しかし、台湾人元日本兵である中村氏は横井、小野田両氏と異なり、「日本人」としての補償を受け取ることができず、わずか6万8000円の帰還者手当が支給されたにすぎなかった。このような不条理に対し、民間有志や国会議員による支援の動きがあった。例えば75年には明治大学教授で言語学者の王育徳(おう・いくとく)氏が事務局長を務める「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」、77年には超党派の国会議員からなる「台湾人元日本兵士の補償問題を考える議員懇談会」(代表世話人:有馬元治)が発足した。支援団体が結成されたことで、台湾人元日本兵とその遺族らによる補償運動は大きく展開されるようになっていった。

そして、87年9月に「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」、88年5月に「特定弔慰金等の支給の実施に関する法律」がそれぞれ特別立法で成立し、台湾人元日本兵の遺族と当事者である戦傷病者に対し、申請が認められた場合には一人当たり200万円の特定弔慰金が支給されることとなった。当時の事務を所管していた総理府(現・総務省)のまとめによると、申請期限の93年3月末までに2万9913件の請求があり、計529億9000万円を支給したという。

未払い給与や軍事郵便貯金については、95年に120倍の額を返還することが決まった。これは台湾の軍人給与の実質的な上昇率などを考慮して日本政府が決定した。しかし、当事者をはじめ支援団体は、戦後50年が経過しており、台湾の経済成長や当時の自衛隊隊員の給与などを勘案すると、物価スライドで1000倍から最大7000倍強が妥当と主張していた経緯があり、日本政府による一方的な決定に対し、反発や抗議の声が上がった。

いずれにせよ、日本政府は台湾人元日本兵・遺族に対する補償や財産の返還について、以上の対応をもって「解決済み」としている。

先述の台湾人元日本兵の蕭氏はこうした日本政府の対応は「あまりにも冷たすぎる」と話す。そして「日本を愛して、日本のためにこの命を捧げた。同じように戦地に行って、日本に戻った者には十分な手当があり、台湾に戻った者には何もないのは悔しかった」と当時の心境を吐露する。

弔慰金の支給を通知する書類(林阿貞氏提供)
弔慰金の支給を通知する書類(林阿貞氏提供)

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