台湾「市制百年」:日台の都市発展、これからは相互の交流時代

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台湾に市制が敷かれたのは1920年10月1日のことで、今年、100周年を迎える。この100年の間、日本は台湾の都市計画と都市文化の発展において重要な役割を果たしてきた。戦前に建てられた公共施設は、台湾の現代都市文化の礎となり、戦後、中華民国政府は日本統治時代の都市計画法令をそのまま受け継いだ。日本のまちづくりも台湾に大きな影響を与えている。筆者は台北で日本からのシンクタンクの訪問団に帯同した経験から、将来は日本と台湾間の双方向の「交流」が実現する可能性を強く感じた。本稿では都市発展面での100年余にわたる日台の交流と、未来の展望について紹介したい。

日本の影響を受け続けた戦後台湾

日本統治時代の終了後も、日本は台湾の都市発展において重要な役割を果たし続けた。日本が台湾で作り上げた都市計画体系は、第二次世界大戦後に台湾が中華民国に接収された以降も、中華民国政府により、そのまま受け継がれたのだ。その原因として、当時の中華民国政府が日本統治時代の都市計画に代わる同レベルの法令を作ることができなかったことが考えられる。中華民国政府も日本の残した都市計画を利用した方が経済発展にとって有利だと考えたのだろう。

台湾の建築学者である黄世孟(こうせいもう)氏によると、日本統治時代に公布された「台湾都市計画令」とその施行細則は、戦後、中国語に翻訳され、1964年まで継続して用いられたという。日本統治時代の都市計画法令が引き続き利用された理由を、前出の渡辺俊一氏は戦後、台湾がとった急速な発展のために強権政治を行う「開発独裁体制」にあると指摘する。「台湾都市計画令」は開発独裁体制下の経済発展に必要だったということだ。

日本国籍を取得した台湾出身の建築家・郭茂林(かくもりん)氏は日本の都市開発のノウハウを故郷の台北にもたらした。台湾文化財に詳しい研究者の凌宗魁(りょうしゅうかい)氏によると、郭茂林氏は自ら2回、台北市長に都市計画について提言を行ったという。一度目は68年の高玉樹市長時代で、内容は台北駅の地下化と鉄道沿線の緑廊構想である。後に高玉樹市長が交通部(交通省)の部長(大臣)に就任し、郭氏の提言に沿って台北駅の地下化と台北メトロの初期計画が進められた。

郭氏の二度目の提言は李登輝市長時代、市政の中心地を信義副都心に移転させるという構想である。77年、李登輝市長は信義地区の開発計画を郭氏に託した。当時計画された高層オフィスビルこそが今の台北101である。日本のドキュメンタリー監督・酒井充子氏はnippon.comのコラムで、信義地区の開発計画では、郭茂林氏が参加した東京新宿副都心開発での経験が生かされたと述べている。

台湾は戦後、日本における住民主導の「まちづくり運動」からも刺激を受けた。たとえば52年に東京都国立市の住民が風俗店など、生活環境に有害な影響を与えるおそれのある業種の土地の使用禁止を求めた住民運動だ。運動の結果、国立市は都から風営法の適用を受ける建物等が建てられない文教地区の指定を受けるに至ったのだ。この住民運動の成功は日本各地の住民を触発し、政府も推進する計画について住民の要求に応えるようになった。

渡辺俊一氏によると、80年代後半、台湾でも戒厳令の解除に伴い、政治が次第に自由化してきたあたりから、日本のまちづくり運動に似た社会運動が始まったという。92年に台北で設立された都市政策の提案に注力する非営利組織「専業者都市改革組織(OURs)」がその一例だ。

また、李登輝総統時代の94年からは地域コミュニティの全体の構築が国家政策の一つとして推進されるようになった。そして99年に台湾の南投県・集集鎮付近を震源地とした921大地震の後、神戸市が阪神大震災からの復興や地域づくりの経験と技術を台湾に提供している。

日本統治時期の西本願寺の樹心会館,現在は台北市制100周年のキャンペーンの記念展を開いている。(提供元:台北市政府)
日本統治時代の西本願寺の樹心会館,現在は台北市制100周年のキャンペーンの記念展を開いている。(台北市政府提供)

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