台湾「市制百年」:日台の都市発展、これからは相互の交流時代

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邱 秉瑜 【Profile】

台湾に市制が敷かれたのは1920年10月1日のことで、今年、100周年を迎える。この100年の間、日本は台湾の都市計画と都市文化の発展において重要な役割を果たしてきた。戦前に建てられた公共施設は、台湾の現代都市文化の礎となり、戦後、中華民国政府は日本統治時代の都市計画法令をそのまま受け継いだ。日本のまちづくりも台湾に大きな影響を与えている。筆者は台北で日本からのシンクタンクの訪問団に帯同した経験から、将来は日本と台湾間の双方向の「交流」が実現する可能性を強く感じた。本稿では都市発展面での100年余にわたる日台の交流と、未来の展望について紹介したい。

日本統治時代から形成された現代都市

日本統治時代、台湾の現代都市計画制度はゼロから始まった。清朝時代の台湾では都市計画と言えば、城壁、城門、大規模な官営の建築物だけが重視すべきもので、現代都市計画制度とはとても呼べないものだった。日本統治時代が始まって間もなく、1899年から台湾総督府は各都市で「市区改正政策」を推し進めた。1900年には「台湾家屋建築規則」を公布。そして32年公布の「台北市計画」は、当時人口26万人だった台北の目標人口を60万人とする都市計画だった。

日本の建築学者で元東京理科大学教授の渡辺俊一氏は、「台北市計画」についてこう指摘する。渡辺氏によると、「台北市計画」とそれ以前の都市計画との違いは、基礎建築の伝統的な枠組みの改善、そして計画が地区全体の発展と管理を目的としている点だという。つまり「台北市計画」は、台湾初の現代都市計画の原則にのっとった都市計画であると言えるのだという。そして、36年に公布された「台湾都市計画令」は日本の「都市計画法」(19年公布)とその関連法である「市街地建築物法」を組み合わせたもので、「台湾都市計画令」をもって台湾の都市計画体系が正式に誕生した。

だが、日本政府が台湾で進めた現代都市計画の過程では、有形無形にかかわらず、台湾の文化財の一部が失われてもいる。その一例が日本の建築学者で明治大学教授の青井哲人氏の著書『彰化一九〇六年―市区改正が都市を動かす』に描かれている。彰化では都市化のために廟や家屋、路地が取り壊されてしまったのだ。

別の例では、台湾総督の田健治郎により進められた「町名改正政策」が挙げられる。この政策により、台湾各地の街の名前が変わり、区画の名称は日本本土と同じ「町」を使うことになったのだ。当初、町名改正はかなり強力に推し進められ、台南や台中等で清朝時代の街の名がほとんど消滅してしまった。

その後、田健治郎は考えを改め、台北の町名改正にはその土地の歴史を尊重するよう求めるようになった。22年、台北の町名改正が完了した際、市区内にある64個の町名のうち、3分の1は伝統的な地名をそのまま、もしくは一部分を残した名称となったのだ。たとえば西門町、 太平町、建成町、龍山寺町、大龍峒町だ。また日本式の名を付けられた町でも、現地の環境や特徴を考慮して命名された。港町、濱町、入船町、河合町、川端町などである。

台湾の現代都市計画制度は日本統治時代にゼロから作られ、戦後、中華民国政府が受け継いだ。(筆者撮影)
台湾の現代都市計画制度は日本統治時代にゼロから作られ、戦後、中華民国政府が受け継いだ。(筆者撮影)

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邱 秉瑜CHIU Bing-yu 経歴・執筆一覧を見る

1986年台北生まれ。国立台湾大学卒業後、英国ロンドン大学にて修士号(空間計画)を取得。台湾で企業顧問、国会アシスタント、地方政府での職務にあたり、また日本の公益財団法人地球環境戦略研究機関(IGES)の実習を経て、台湾と国際都市の比較をテーマに執筆活動に従事する。現在、米ペンシルバニア大学の博士課程に在籍中。著書に『我們值得更好的城市(方寸文創出版)』。

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