疫病を乗り越えて:台湾が「最古の感染症」マラリアを克服した道

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大洞 敦史 【Profile】

新型コロナウイルスが人類に襲いかかった最も新しい感染症だとすれば、マラリアは人類にとって最古の感染症の一つであり、今日もアフリカを中心に毎年2億人以上が感染している。台湾でもマラリア原虫を媒介する蚊であるハマダラカが長く外来者の移入を阻んできた。伝染病が蔓延(まんえん)していることから「瘴癘(しょうれい)の島」と恐れられた台湾。その最大の脅威であったマラリアを克服できた背後には、日本や台湾の医療関係者が払った献身的な努力があったことを、コロナ時代だからこそ、われわれは思い出すべきである。

ハワイから船に乗って来た魚

マラリア対策は「対原虫方法」と「対人方法」に大別される。

「対原虫方法」は上下水道の整備、沼沢地の埋め立て、叢林の伐採、殺虫剤散布等によりハマダラカを減らしていく方法だ。ただし地域住民に無償での作業を強いたため反発が大きく、効果も認めづらかった。

1911年のカダヤシ移入も、対原虫法の一例だ。台湾総督府付の農業技術者だった井街顕は、アメリカ視察の帰途、ハワイにてメダカによく似た小型淡水魚を600匹手に入れて水温の上昇を防ぐために布でくるんだ氷を水槽の上に置くなど、細心の注意を払って台湾へ持ち帰った。ボウフラを好んで食べる習性からカダヤシ(蚊絶やし)と呼ばれたその魚は、途中50匹にまで減ってしまったが、無事繁殖に成功し、万感の期待をこめて台湾各地の淡水域に放流された。その後、ハマダラカの減少にどれほど寄与したのかは未知のままだが、今も田舎の池などでカダヤシの子孫の姿を見ることができる。日本へも1916年に台湾から移植された。

成果を上げたが、戦争で元の木阿弥に

「対人方法」については、羽鳥重郎が細菌学者ロベルト・コッホのニューギニアにおける成功例を参考に提唱したものが採用され、1910年以降主流となった。マラリアの多い土地および総督府が重視する土地を「防遏(ぼうあつ)地域」に指定し、各地域に防遏所を設け、住民に月1回血液検査を受けさせ、原虫陽性者に原虫の繁殖サイクルを上回る期間キニーネを投与することで、撲滅をめざすものだ。検査と投薬は無料で行われ、目に見えて効果があったため民衆に広く受け入れられた。防遏地域は年々増え、終戦前の1944年には197カ所が指定されていた。

今の世の中でも、COVID-19感染拡大防止のためにPCR検査を大規模に実施すべきだとする意見と、そうではないという意見とがせめぎあっている。時代背景も感染症のタイプも異なるが、当時のコッホや木下、羽鳥らによる理論と実践は、現在のPCR検査をめぐる議論にも何らかの知見を与えてくれる可能性があるだろう。

北里研究所出身で1924年より台湾でマラリア研究にあたった森下薫が作成した「人口/マラリア死亡者/一万人あたりの死亡者」の統計によれば、1906年は299万/10582/35.4だったのが、1920年には346万/7760/22.4になり、1930年には427万/2844/6.7となっている。この間人口が140%増えた一方、死亡者は4分の1にまで減少しており、確かに成功を収めていたといえる。

しかし第二次世界大戦の勃発が、長年積み上げてきたものをぶち壊した。ままずキニーネはその原料となるキナが高雄六龜地区などで大量栽培されていたが、南方諸地域に展開する日本軍に送られたため台湾民衆に行き渡らなくなり、更に免疫を持たない都市部の人々が地方に疎開したことで感染は拡大の一途を辿った。日本の敗戦後に政権を握った国民党も適切な処置を講じることができず、戦後初期には人口600万人中100万人以上がマラリアに罹患していたという報告もある。

戦前栽培されたキニーネの原料となるキナの木。六亀扇平生態園區(筆者撮影)
戦前栽培されたキニーネの原料となるキナの木。六亀扇平生態園區(筆者撮影)

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1984年東京生まれ、明治大学理工学研究科修士課程修了。2012年台湾台南市へ移住、そば店「洞蕎麦」を5年間経営。現在「鶴恩翻訳社」代表。著書『台湾環島南風のスケッチ』『遊步台南』、共著『旅する台湾 屏東』、翻訳書『フォルモサに吹く風』『君の心に刻んだ名前』『台湾和製マジョリカタイルの記憶』等。

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