疫病を乗り越えて:台湾が「最古の感染症」マラリアを克服した道

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新型コロナウイルスが人類に襲いかかった最も新しい感染症だとすれば、マラリアは人類にとって最古の感染症の一つであり、今日もアフリカを中心に毎年2億人以上が感染している。台湾でもマラリア原虫を媒介する蚊であるハマダラカが長く外来者の移入を阻んできた。伝染病が蔓延(まんえん)していることから「瘴癘(しょうれい)の島」と恐れられた台湾。その最大の脅威であったマラリアを克服できた背後には、日本や台湾の医療関係者が払った献身的な努力があったことを、コロナ時代だからこそ、われわれは思い出すべきである。

外来者の侵入を阻む「戦闘機」ハマダラカ

台湾は「美麗島」という美称をもつ。16世紀中葉、日本に鉄砲とキリスト教をもたらしたポルトガル人たちは、同じころ海上から急峻な山々がそびえるこの島を眺めて「Ilha Formosa!(美しい島)」と感嘆し、以来それがヨーロッパ人の間でこの島の通名になったという。

一方で、清朝の官吏や軍人たちはこの島を「瘴癘(しょうれい)」島と言い表している。「瘴」は山川にたちこめる毒気、「癘」は流行り病という意味だ。駐インド英国人医師のロナルド・ロスによりハマダラカがマラリアの感染媒体だと突きとめられたのは1897年で、それ以前は毒気を吸うことが原因だと、世界各地で一般に考えられていた。

免疫を持たない外部からの侵入者に対し、ハマダラカはさながら戦闘機のごとく襲いかかり、マラリア原虫という砲弾によって「撃退」した。1874年(明治7年)の日本軍による台湾出兵はその顕著な例だ。3600人中、戦死者はわずかに12人だったのに対し、実に561人が病死し、撤収を余儀なくされた。

数千年来、マラリアはこのようにアフリカとアジアの熱帯地域から外来者の侵入を阻んできた。マラリアがなかったら、世界史はまったく違うものになっていただろう。

台湾の山地(筆者撮影)
台湾の山地(筆者撮影)

台湾マラリア研究の先駆者、木下嘉七郎と羽鳥重郎

ロスの発見に先立つ1895年以降、台湾総督府は、五里霧中の状況下でこの謎の敵に立ち向った。翌96年から3度にわたり台湾でペストが流行したこともあり、マラリア対策にまではなかなか手が回らなかったが、調査・研究は着々と進められていた。

木下嘉七郎と羽鳥重郎は、日本統治初期における代表的な研究者だ。木下は長崎第五高等学校医学部卒業後、台北近郊で蚊の生態を調査し、1901年《東京醫學會雜誌》第16号に「肉叉蚊第一回報告」として発表した。その後ドイツ留学を経て帰台。マラリアが流行していた甲仙埔(現在はタロイモの名産地として知られる高雄市甲仙區)の居住者約3500人に一律で治療薬のキニーネを服用させ、良好な効果を挙げた。将来を嘱望されたが、山岳地帯で病に倒れ、1908年に36歳の若さで亡くなってしまう。木下が発表した約20本の論文は、台湾におけるマラリア研究の礎となっている。

群馬県出身の羽鳥重郎医師も精力的にフィールドワークを行い、いくつものハマダラカの新種を発見した。また台湾の風土病の一つをツツガムシというダニによって引き起こされる「台湾ツツガムシ病」であると解明するなど、台湾の医学と公衆衛生に多大な貢献をなした。退職後しばらく東部の花蓮で暮らし、その旧居は現在修復されて「秋朝咖啡館」という木のテイストあふれるカフェになっている。

ハマダラカの精巧な模型。国立台湾大学医学人文博物館(筆者撮影)
ハマダラカの精巧な模型。国立台湾大学医学人文博物館(筆者撮影)

1928年教育用に製図された「マラリア病原虫感染経路」。極めて明瞭に描かれているが、但し現在の認識とは一部異なる。同博物館所蔵(筆者撮影)
1928年教育用に製図された「マラリア病原虫感染経路」。極めて明瞭に描かれているが、但し現在の認識とは一部異なる。同博物館所蔵(筆者撮影)

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