戦時の白黒写真をAIでカラー化:広島出身の大学生と東大教授が挑む「記憶の解凍」
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「德三さんとの出会い」が生んだプロジェクト
カラー写真を白黒やセピア色に加工するとノスタルジックな雰囲気が味わえる。では逆に、白黒写真をカラー化すると、一体どんな効果が表れるのか。庭田さんがその不思議な力に引き込まれたのは、今から3年前、高校1年生の秋のこと。
庭田さんは母校で、「ヒロシマ・アーカイブ」の証言収録に取り組む委員会に入っていた。ヒロシマ・アーカイブとは、2011年に渡邉さんが立ち上げたプロジェクトで、戦禍に見舞われた広島の膨大な資料をテクノロジーとアートを駆使して、後世に伝え残していく試みだ。被爆者たちの証言を集める中で、庭田さんが出会ったのが濵井德三さん。濵井さん一家は原爆投下前、広島市の中島地区(現在の平和記念公園)で理髪店を営んでいたが、疎開していた德三さんを除いて皆、命を落とした。
德三さんが大切に残していた家族との写真を見ながら話を聞くうちに、ふと思った。「これらの写真をカラー化してプレゼントしたら、きっと喜んでもらえるはず」。庭田さんは、少し前に、渡邉さんのワークショップで戦前の沖縄をカラー化した写真を見て、それまで遠かった歴史が身近に感じられたことを思い出した。
渡邉さんが「AIによる白黒写真の自動色付け技術」に出合ったのは2016年。早稲田大学理工学術院の石川博教授らが開発し、オープンソースとしてウェブ公開した技術を使って、終戦直後の広島の写真をカラー化してみて驚いた。写っている人が今にも動き出しそうな気がした。そこで、ヒロシマ・アーカイブで紹介している被爆者たちの証言への反響が大きいのに、白黒写真への関心はいま一つで、その価値を十分に伝えられていない理由に気づいた。
「カラー写真に目が慣れた我々は、無機質で静止した“凍りついた”印象を白黒写真から受ける。このことが、戦争との距離を遠ざけ、自分ごととして考えるきっかけを奪っているのではないか」
原爆のキノコ雲や特攻隊員の写真などをカラー化し、ツイッターに投稿してみた。すると数千ものリツイートがあり、多数のアドバイスや情報が寄せられた。以来、戦前・戦中の貴重な写真を探し出してカラー化し、「〇年前の今日」というタイトルで発信するようになった。
カラー化写真を前に思い出が時を刻み始めた
庭田さんは渡邉さんから自動色付けの技術を学ぶと、德三さんの写真をカラー化して見せた。すると、白黒写真では思い出せなかった記憶が、德三さんの頭に次々とよみがえった。
「家族がまだ生きているようだ」
「そういえば、ここでは杉鉄砲でよく遊んだなあ」
続いて訪ねたのは高橋久さん。高橋さんの生家も中島地区で写真館を営んでいたが、德三さん同様、久さんも原爆投下でたった一人残された。認知症を患う久さんと対話するのは難しい、とのことだったが、カラー化したアルバム写真を前に、生き生きと家族の思い出を語り始めたのだ。スイカの皮を被った写真では「フラッシュが怖かったから」と教えてくれた。
「小さい頃は、平和学習がとても苦手だった」と庭田さんは言う。広島市の小学校では、毎年8月6日の原爆の日が近づくと、平和学習が行われる。だが、戦争がもたらした悲惨な光景を受け止めきれず、思わず目を背けそうになったという。
「それは、今の自分たちとつながる点を見いだせず、異世界の出来事のように感じていたからだと思う。白黒写真をカラー化することで、戦争を知らない人にも“自分ごと”として捉えてもらうきっかけになるのではないか。戦前には、今の私たちと変わらない暮らしがあり、それがたった一発の原子爆弾によって一瞬のうちに奪われた。戦争は遠い過去の出来事ではなく、これからの私たちにも十分に起こりうるものだと……」
こうした庭田さんの想い、カラー化写真から生まれた対話でよみがえった記憶を目の当たりにして、渡邉さんに「記憶の解凍」という言葉が浮かんだ。白黒の世界で凍りついていた過去の時が流れはじめ、遠い昔の戦争が今の日常と地続きになる。そして、当時の世相や文化、生活の様子など、写し込まれた出来事にまつわる豊かな対話が生み出されていく。2人の共同プロジェクトが始動した。
幸せな暮らしに潜む影を感じ取って欲しい
「記憶の解凍」は、AIと人間とのコラボレーションだ。まず、約230万組の白黒・カラー画像を学習させたAIにより、白黒写真を「自動色付け」する。AIは人肌や空、海、山など自然物のカラー化が得意だ。一方、衣服や乗り物といった人工物は苦手で、不自然さが残る。自動色付けは、あくまで下色付けで、次に戦争体験者との度重なる対話やSNSなどで寄せられたコメント、資料をもとに手作業で色を補正していく。手間がかかる地道な作業で、中には数カ月を要することもある。
渡邉さんが光文社の編集担当、高橋恒星さんと話し合って決めたのは、「グロテスクなもの、悲惨なものは並べない」ということ。片渕須直監督の映画「この世界の片隅に」のように、当時の日常生活をクローズアップし、一見幸せな暮らしの中に潜む影を捉えようとした。さらに米軍カメラマンが撮った写真や日系人強制収容所の人々の写真も収めることにした。
一方、庭田さんは「子どもたちの目線から写真を集めた」という。戦争は、子どもを含む一般市民も巻き込んでしまうことを、德三さんや久さんらの想いとともに伝えたかった。
「庭田さんの意志の強さと天真爛漫さ、そして物怖じせず、自然体で話を聞く姿勢が、被爆者たちの記憶や本心を引き出したのだと思う」と高橋さんは語る。
「色彩の記憶」をたどる旅に終わりはない
7月16日に出版されると同書は人々の共感を呼び、わずか1カ月で第5刷が出るヒット作となった。だが渡邉さんは、「カラー化された写真の色彩は、実際の色彩とは異なる。できる限りの再現を目指しているが、まだまだ不完全。本書はあくまで、現時点での成果物に過ぎない」と冷静だ。
渡邉さんのコメントを象徴するエピソードがある。それは、写真集の冒頭と巻末を飾る「焼け野原を見つめる1組の若い男女」の写真だ。
キャプションには「1946年8月5日 原爆投下から1年、まだ焼け野原が目立つ広島市街。八丁堀の福屋デパートから南東方向を望むカップル」とある。
この写真は、渡邉さんが米国滞在中の2016年にウィルミントン大学平和資料センターで発見したもので、カラー化して18年8月6日、広島原爆の日にツイートした。大きな反響があり、新聞に掲載されたところ、記事を見た共同通信社の関係者から、写真の詳細がつづられた手紙が届いた。それによると、写真は共同通信社が1946年8月5日以前に撮影したもので、被爆・終戦1周年に向けた企画取材の際に全国の関係地へ取材手配した中の1枚だった。
さらに、被爆した福屋百貨店は、街に活気を取り戻すことを願い、終戦1年後にすでにダンスホールを営業していたこともわかった。
結局、男女が誰なのかは謎だったが、庭田さんと渡邉さんはこのカップルの姿を「復興へ向かう広島の明るい未来」の象徴として取り上げた。
ところが、「物語」はこれで終わりではなかった。
写真集が出版されて間もなく、広島市南区の元カキ養殖業、90歳の川上(かわうえ)清さんが「あのカップルは、私と後に結婚した妻だ」と名乗り出たのだ。庭田さんは清さんのもとを訪ねた。残念なことに、妻の百合子さんは今年1月に90歳でこの世を去っていた。
早速、清さんの証言をもとに2人の服装や焼け野原などの色補正をした。当時はまだ煙が立ち上っているような、もっと黒っぽい景色だったという。そして、庭田さんらが想像していたように「希望を込めて見つめていた」のではなく、自宅の方を眺めて原爆で亡くなった友人をしのんでいたのだという。戦災による心の傷が癒えない中、支えとなったのが百合子さんの存在で、2人は5年後に結婚する。
「これからも新たな証言が舞い込み、改めて証言を聞き、画像に手を加えていくことがあるだろう」と渡邉さんは言う。
「過去の色彩の記憶をたどる旅」、それはおそらく、永遠に終わらない旅である。
バナー写真:「記憶の解凍」プロジェクトに取り組む庭田杏珠さん(右)と渡邉英徳さん(左)。「この写真集が英語など多言語でも出版できれば」と話している 天野久樹撮影