若林正丈の「私の台湾研究人生」

私の台湾研究人生:『台湾監獄島』で柯旗化先生が願った夢

政治・外交

若林 正丈 【Profile】

1984年に「党外公共政策会」が結成され、翌年民進党が生まれ、台湾で地方選挙が行われた。戒厳令体制が「死に体」となっていくプロセスは始まっていた。そんな中、筆者は高雄で柯旗化氏と出会い、「第一出版社」を訪ねる。そこで「白色テロ」の被害者と家族らの癒えることのない傷を身近に感じたのだった。

自叙伝『台湾監獄島』

高雄で初めてお会いしてから7年後の1992年、柯旗化先生は日本語の自叙伝を出版した。タイトルは『台湾監獄島』(東京:イーストプレス)。柯先生は、1回目は1951年から53年にかけて、2回目は1961年から76年にかけて、合計足かけ17年の牢獄生活の大部分を緑島の政治監獄ですごした。

『台湾監獄島』表紙(筆者撮影)
『台湾監獄島』表紙(筆者撮影)

緑島は台湾東部の街台東の沖合にある小島で、日本植民地期に台湾総督府は、ヤクザ者や住居不定者を収容し、更生させる施設を設置していた。戦後台湾を統治することになった国民党政権は、ここに政治犯収容所を置いたのである。沖合の孤島はまさに逃亡不可能な監獄島だったが、1949年以来の長期戒厳令下で「反乱懲罰条例」や「共産党スパイ摘発条例」などの極めて抑圧的な治安法令の支配下にあり、時にそれらの法令さえ踏みにじって弾圧が行われる状況は、台湾全島に及んでいた。運良く死刑を免れ刑期を終えて釈放されても、元政治犯として引き続き政治警察の監視とハラスメントの対象であり続けた。この間家族が辛い目に遭ったことは言うまでもない。これらの法令が最終的に廃止・改正されるのは柯旗化先生が自叙伝を出した1992年である。それまでは、台湾全島が監獄だった、つまり「台湾監獄島」だった。

2020年2月政府の行政院移行期正義促進委員会が発表した数字によると、前記の治安法令に基づき「白色テロ」時代に政府が立案した政治犯案件数は1万8000件あまりであるという。1件あたり少なく見積もって10人が逮捕・尋問(甚だしくは拷問)などの圧迫を受けていたとすると、「白色テロ」の被害者総数は18万人強と推定できるかもしれない。そして、その周囲にそれぞれの家族や友人たちがいた。冒頭に紹介した柯旗化先生の場合は、弟も投獄され、母、妻と3人の子どもが息子・夫・父なき十数年を強いられたのである。

息子・柯志明さんの述懐

ところで第一出版社と言えば、私は『台湾文化』を出版している出版社として初めて出会ったのであるが、台湾の受験生の間ではつとに有名な出版社であった。出版社名を知らなくても同社の『新英文法』といえば長く台湾の大学受験用英文法参考書のベストセラーであった。私が後年記念に購入した一冊の奥付には「中華民国74(1985)年9月増補改訂版第58版」と記してある。「第58版」は58刷りの意味である。柯先生はその編著者であった。前記のように柯先生はもともと高校の英語教師で、最初の牢獄生活から戻った後の1960年にこの本を出し、その翌年に再度投獄されてしまうのだが、この本が売れに売れて父を牢獄に奪われた留守家族を支えたのである。先生は獄中でも同書の改訂に努めたという。

柯旗化氏編著の『新英文法』(左)と同作の小説(右)(筆者撮影)
柯旗化氏編著の『新英文法』(左)と同作の小説(右)(筆者撮影)

長じて台湾の高名な社会学者となった柯旗化先生の長男柯志明さん(1956-)は、『台湾監獄島』の中国語版(第一出版社、2002年)の後書きで「(父は)決して世に功績を誇るような大人物ではない、いささか天真爛漫で職責に忠実で人として信ずるに足る一個の凡人である」と柯先生の為人を評している。まことにその通りで、私が1985年11月初対面の際も「純な人」というのが第一印象であった。柯志明さんはさらに「私たちが耐えがたいのは、そのような人があの時代のあのような残酷な仕打ちを受けなければならなかったことである」とも述べている。政治犯の息子として青春を生きぬいた人の述懐である。傷を癒すには時間がかかるが、時間と経済発展だけでは癒やされない傷もある。こうした傷を癒すには、まずは台湾が監獄島でなくなる必要があったのだと思う。

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早稲田大学名誉教授、同台湾研究所学術顧問。1949年生まれ。1974年東京大学国際学修士、1985年同大学・社会学博士。1994年東京大学大学院総合文化研究科教授などを経て2010年から2020年早稲田大学政治経済学術院教授・台湾研究所所長。1995年4月~96年3月台湾・中央研究院民族学研究所客員研究員、2006年4月~6月台湾・国立政治大学台湾史研究所客員教授。主な著書は『台湾の政治―中華民国台湾化の戦後史』(東京大学出版会、2008年)など。

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