台湾野球と日本(上)台湾人が忘れられない西武ライオンズ黄金時代――デストラーデから郭泰源まで

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台湾のスポーツ記者である筆者が子どもの頃、西武ライオンズでは「オリエンタル・エクスプレス」と呼ばれた剛速球投手・郭泰源が活躍、気が付けば熱烈なライオンズファンになっていた。90年代のライオンズは、投打ともにきら星のごとく輝く選手が多かった。キューバ生まれのデストラーデは3年連続でホームラン王となり、とりわけ印象深い選手の一人だ。まさか、憧れのデストラーデと黄金時代のライオンズについて語り合う日がやってくるとは…!

制服に「辻発彦」の名前を刺しゅうする

1990年、中学生になったその年、台湾では中華職棒(台湾プロ野球)が発足した。当時、台湾には米国へ渡った大リーガーはおらず、台湾出身の最高レベルの選手と言えば「二郭一荘」、中日ドラゴンズの郭源治、西武ライオンズの郭泰源、ロッテオリオンズの荘勝雄だった。特に150キロ近い剛速球を投げ、チームの成績も良かった郭泰源は、台湾のファンに最も注目されていた。

「アジアの大砲」「怪物」と称された読売ジャイアンツの呂明賜は出場機会に恵まれず、台湾の新聞では相対的に西武ライオンズの報道が増えていた。チームの成績に関するものばかりでなく、強肩瞬足豪打の三拍子で鳴らした秋山幸二が郭泰源とプライベートでも仲が良かったことや、秋山の顔立ちが台湾プロ野球の味全ドラゴンズのキャプテン・洪正欽と似ていたことなど、選手の細かい報道も増えていた。ちなみに味全ドラゴンズファンでもあった私としては、新聞を読んでいて大変気持ちが良かった。

高校時代の制服はカーキ色で、胸元に学籍番号と名前、それに学年を表す横棒を刺しゅうすることが義務付けられていた。反抗期の男子としてはどうしても目立つことがしたかったのと、野球部でセカンドを守っていたこともあって、私は制服に西武のリードオフマン、セカンド「辻発彦」の名前を縫ったのだ。今思い出しても、とてつもなく「中二病」だったと思う。しかし、当時のライオンズがどれだけ私に影響を与えていたかを証明していると思う。

あの頃のライオンズのクリーンナップは「AKD砲」と呼ばれ、秋山幸二、清原和博、オレステス・デストラーデがそれぞれセンター、ファースト、DH(指名打者)で、キャッチャーは伊東勤、セカンド辻発彦、サード石毛宏典、ショート田辺徳雄、ライト平野謙など、レギュラー選手は、レフト以外、皆よく知っていた。先発投手と言えば、郭泰源にダブル渡辺(渡辺久信、渡辺智男)、左腕の工藤公康、ブルペンには潮崎哲也がいて、多くの台湾人ファンはそのサイドスローをまねしていた。

当時の地上波では日本のプロ野球の中継はなく、衛星放送を受信するためにパラボラアンテナを設置した叔母の家に行かなければ、ライオンズの試合を見られなかった。運が良かったことに、当時レンタルビデオ店で日本シリーズの試合を録画したビデオを借りることができたので、少しだけ満足できたが、さすがにシーズン中の毎試合をレンタルすることはできなかった。

ゲームでも西武ライオンズを選択

両親は私の成績が悪くなるのを心配していて、ファミコンやメガドライブなどのテレビゲームを買ってもらえなかった。学校からの帰り道にあったアーケードゲームのプロ野球ゲームでライオンズの選手に采配を振るうのが、私の野球愛を満たすもう一つの方法だった。3回ごとにコインを投入しないとゲームが続行できないため、「日本一」を勝ち取るには、最低でも60元が必要だったので、翌日のゴハン代がなくなってしまうことがよくあった。

私がゲームの中でもライオンズをひいきにしていたのは、単に150キロの剛速球を投げられる郭泰源がいたからだけではない。打順がAKDになったとき、操作レバーを下に滑らせながらいわゆる「引っ張り打ち」をするとホームランを打つことができたのだ。残念ながら他のチームのクリーンナップはこんなことができなかった。しかもAKは守って走れた。秋山のホームラン後のバク転はずっと私の憧れだったし、清原については、野球部の監督がよく内外角球の打ち方の手本としてビデオで解説してくれたので、チームメイトの中には打席に入る前のしぐさから真似する者が多くいた。

1990年からのライオンズ3連覇の原動力となったデストラーデは、3年連続でパ・リーグのホームラン王となった。彼は、私が初めて知ったスイッチヒッターのホームラン王だと思う。守備にはほとんどつかず基本的にDH専業。日本シリーズではセ・リーグのホームでファーストの守備についたが、その時は清原と石毛がそれぞれサードとショートを守った。いま振り返ると、褐色肌に眼鏡のデストラーデは、清原や秋山より見分けがつきやすかった。私は趣味が高じてスポーツ記者になったが、まさか20数年後の米国取材で、このキューバ出身の大砲と出会うなんて、夢にも思わなかった。

デストラーデは郭泰源と対戦したかった!

2015年4月、私は米大リーグで活躍中の台湾人左腕・チェン(陳偉殷)の取材で、ボルティモア・オリオールズに随行し、タンパベイ・レイズの本拠地、トロピカーナ・フィールドに来ていた。当初はレイズのフロントで、スペイン語の盲目アナウンサー、エンリケ・ヘンリー・オリウ(Enrique “Henry” Oliu)も取材したいと思っていた。ところが偶然にも記者室でデストラーデと遭遇したのだ。彼は2011年からレイズの解説者になっていた。私はこのチャンスを逃すまいとインタビューを打診したところ、私がかつてのチームメイトの郭泰源の国から来た記者だと分かり、即答でOK。翌日、球場レフト側の放送室で単独インタビューが実現した。

放送室で打ち合わせ中のデストラーデ(筆者撮影)
放送室で打ち合わせ中のデストラーデ(筆者撮影)

「郭泰源は、統一ライオンズのピッチングコーチをしてるんだよね(2015年当時)。最近会ったのは2009年のWBCワールド・ベースボール・クラシックの時だったかな」

ダグアウトでロッカーが隣同士だった秋山より郭の方が英語が上手だったそうだ。

「秋山は英語を聞きとれているけど、恥ずかしがり屋なのか自分で話すことはなかった。発音に自信がないのかな。清原は全然だめだったよ」

話題が郭に及ぶと剛速球の話になった。デストラーデいわく、もしかしたら同期のロッテ・伊良部秀輝の方が球速は上回っていたかもしれない。でも、伊良部のストレートは真っ直ぐ過ぎて、郭のようなキレはなかったそうだ。そうやって話しているうちに、今度は手で球筋を表現しはじめ、そのうちにキャッチャーの伊東勤が乗り移ったかのように、ボールがどのようにキャッチャーミットに収まっていったのかを語り始めたのだ。

「郭の球は絶対に膝よりも高くならない。スライダーやフォークは、いきなり落ちるんだ、シュッ、シュッとね。バッターは球種の予測が難しかったと思う。彼と対決したかったよ!」

笑いながら、実戦で郭と対戦できなかったことが心残りだったと言っていた。

「もし台湾でOB戦があったら、私は喜んで彼との対決を受けるよ。彼によろしく伝えてくれ、私からはそう簡単にアウトは取れないぜ、ハハハ」

もちろん郭だけでなく、他のライオンズ選手の話題でも盛り上がった。20年以上も昔のことなのに、当時のことを鮮明に覚えており、西武黄金時代のメンバーを一人一人思い出せたことにわれながら驚いた。その日、私はデストラーデから「真の西武ライオンズファン」の認定を受けたのだった。

こうして私とデストラーデのトロピカーナ・フィールドのレフトスタンドでの楽しいひと時は終わった。インタビューの終了間際、レイズの関係者が「どうして、そんなに楽しそうに話しているんだ?」とデストラーデに聞いた。すると、再び伊東が乗り移って、かつての台湾人のチームメイトがどれほどすごい選手だったのか熱っぽく伝えているのが印象に残った。

インタビューというよりも、タイムトンネルをくぐって開かれたファンクラブイベントのようだった。デストラーデにとっては、選手として最も輝いていた日本での思い出をファンと共有するひと時となったのではないか。レーシック手術で視力が回復し、トレードマークだった眼鏡はかけていないが、右手の薬指には1992年のオールスターに選ばれた際に授与された指輪をしいた。彼にとって西武での5年間がどれほど尊いものだったかを物語っていた。

デストラーデや郭泰源ら、黄金時代のライオンズの選手がいかに素晴らしかったかは、私のように熱烈でありながら、客観的な目も持った日本国外の記者が伝えた方が伝わるのではないだろうか。

デストラーデにとって、あの日の取材が彼の大切な思い出に花を添える出来事だったらうれしい。インタビューで自分の喜びや楽しさを伝えることができて、インタビューをされた相手にとっても忘れ難い思い出になったとしたら、記者冥利(みょうり)につきる。

バナー写真=郭泰源(左)とデストラーデ(右)(共同イメージズ)

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