江戸は蕎麦、京坂はうどん!: 東西の麺文化の違いを克明に記した『守貞漫稿』(その2)

歴史 文化

第1回では、江戸と京坂(上方)の文化の違いにショックを受けた商人・喜多川守貞が、江戸時代の百科事典『守貞漫稿』を執筆し、後世に残そうと考えるに至った経緯を解説した。今回は、その文化の違いの具体的内容である「食」、なかでも和食の代表である「蕎麦(そば)」「うどん」を、同書から紹介していく。

17世紀にさかのぼる東西の麺文化の違い

『守貞漫稿』は、17世紀中頃から、蕎麦を提供する飲食店が登場したと記す。「二八蕎麦は寛文四(1664)年に始まる。すなわち価十六銭(文)を云うなり」(十六文=約520円)一方の京坂では同じ頃、蕎麦より温飩(うどん)を好む人が多かった。蕎麦も提供してはいたが、温飩の人気が高かったので、屋号も「温飩蕎麦屋」だった。価格はやはり十六文。

現在も「関東は蕎麦、関西はうどん」と大まかに分類されるが、こうした好みの違いはすでに17世紀からあったのである。

江戸は、せいろに蕎麦を盛り、だし汁(つゆ)に浸けて食べる。これを「盛り」という。現在の盛り蕎麦と同じ形式だ。熱いだし汁を掛けたものは「掛け」で、丼鉢に入れて出す。こちらは掛け蕎麦である。

江戸の「盛り蕎麦」。二八蕎麦を盛るのに皿を用いず、出し汁付き
江戸の「盛り蕎麦」。二八蕎麦を盛るのに皿を用いず、出し汁付き

京坂の温飩も江戸の蕎麦も、「二八」と呼ばれた。現在でも、「蕎麦粉8、小麦粉2」の割合で打った蕎麦のことを「二八」と呼ぶが、うどんは「二八」とは言わない。うどんは小麦粉(=うどん粉)100%で打つため、「二八」になりようがないのだ。

「二八」の語源は、粉の配合ではなく、価格の十六文、つまり「16=2×8」から来ているという説があり、うどんを「二八」と呼ぶのも、これなら説明がつく。『守貞漫稿』はこの説をとっている。

ちなみに、江戸時代に大ヒットした算術書『塵劫記(じんこうき)』には九九の表が収録されている。庶民にどこまで定着していたかは定かではないが、少なくとも、商人には必須の知識であったはずだ。

価格は時代とともに高騰し、守貞が生きた幕末は二十四文になっていたが、「三八」とはいわず、「二八」のままだったそうだ。

京坂の二八うどん。平皿に盛られた“ぶっかけ”形式 「今世 江戸ノ蕎麦屋」の看板。行灯の形。「二八」の文字がある
左 : 京坂の二八うどん。平皿に盛られた“ぶっかけ”形式、右: 「今世 江戸ノ蕎麦屋」の看板。やはり「二八」の文字がある

「慳貪の蓋」の図。「おかもち」の原型といえる
「慳貪の蓋」の図。「岡持ち」の原型といえる

だし汁は関西は薄味、関東は辛いのが今では定番だが、守貞は「どちらがうまいか?」のジャッジは下していない。だが、盛りつけた器を詳細に記していることから、関西のだし汁は「飲む」ため、関東は(蕎麦を)「浸ける」ためと、守貞は考えたようである。

なお、守貞によると蕎麦や温飩は、かつては「慳貪」(けんどん)と呼ばれていた。慳貪とは仏教用語で、「物惜しみする、けちで欲深い」様子(または人)を指すが、それが転じて「安っぽい食事」という意味だったらしい。

幕末には慳貪という言葉は姿を消し、わずかに蕎麦などを持って運ぶ提(さ)げ箱を「けんどん蓋(ふた)」と呼んでいた。

ご覧になればお分かりだろうが、出前用の岡持ちのことであり、現在も岡持ちを「倹飩箱」(けんどんばこ)と呼ぶことがある。

江戸で屋台の蕎麦屋が発展した理由

京坂の繁華街には「四、五町には一戸ナルベシ」(4〜5区画に1軒あった)、江戸では「毎町一戸アリ」(どの区画にも1軒はあった)だったという。江戸のほうが、ニーズは高かったということだろう。

それには理由があった。江戸の住人は、圧倒的に男が多かった。諸説あるが、男1.8に対して女1ほどの割合だったらしい。市中には地方から職を求めて来た者が多く、大抵は一人暮らしだった。参勤交代で江戸詰めの武士も、妻を国許に残していた。

つまり、江戸の男たちには、食事を作ってくれる人がいなかったのである。

そこで、外食の需要が高まる。江戸の蕎麦屋は、その点で重宝だった。蕎麦屋の多くが、屋台で営業していたからである。これを「夜鷹(よたか)蕎麦」といった。

夜鷹とは、娼婦のこと。吉原遊郭の娼婦は幕府公認の「公娼」だが、夜鷹は非合法の「私娼」であり、目立たない場所で客を引いていた。

その娼婦たちが腹を空かせているだろうと考えた者が、屋台で蕎麦を提供し始めた。この屋台の出店も、違法である。明暦の大火など、市中を焼き尽くすような火災に見舞われた経験から、幕府は調理に火を使う屋台の出店を貞亨3年(1686)に禁止していたのである。だが、無許可にもかかわらず、夜鷹蕎麦は繁盛した。

そこに目をつけたある蕎麦屋が享保の頃(1716頃)、正式に屋台で蕎麦を売ることを願い出て許可される。それを契機に我も我もと、夜な夜な、屋台蕎麦が営業を開始した。

蕎麦屋の「屋體見世」。江戸では「夜鷹蕎麦」と呼ばれた風物詩
蕎麦屋の「屋體見世」。江戸では「夜鷹蕎麦」と呼ばれた

すべての屋台がきちんと許可を受けていたとは、到底考えられない。だが、さまざまな場所に現れ、夜遅くまで営業してくれる。ヤモメ暮らしの男たちにとって、これほどありがたい存在はない。現在のコンビニのような役割を、江戸の蕎麦屋は担うことになった。

屋台は当時、「屋體見世」(やたいみせ)といわれ、次第に江戸の日常風景として定着していく。屋體見世は「必ズ一ツ風鈴ヲ釣ル」と守貞は書いている。上方育ちの守貞にとって、チリンチリンと風鈴を鳴らしながら行き交う光景は、興味深かったに違いない。
さらに、屋體見世が提供する食事は蕎麦に止まらなかった。寿司(すし)、鰻(うなぎ)、天ぷらを出す屋台が庶民の食欲を満たし、現在の東京の食文化を形作っていく。

次回は、屋台で売られたさまざまな「食」を紹介していこう。

『守貞漫稿』シリーズ第1回はこちら

バナー写真・文中写真すべて 国立国会図書館蔵 /バナーは、 4、5町に1軒はあったという「今世 京坂ノ温飩蕎麦屋」

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