マンガの聖地「トキワ荘」が復活、60年前の熱気を今に

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「鉄腕アトム」で知られる手塚治虫ら日本を代表するマンガ家が若き日を過ごし、伝説のアパートと称された「トキワ荘」。1982年に解体された後も全国からファンが集う「マンガの聖地」が、「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」としてよみがえった。再現された空間からは、手塚の背中を追って「ストーリーマンガ」という新たなスタイルに挑んだ若者たちの息遣いが伝わってくる。

きしむ階段は60年前へのタイムトンネル

「トキワ荘へ着いた。立派!だが……なにやら古めかしく、オンボロの印象も同時にある。建ててから二、三年と聞いたから、まだそんな筈(はず)はないのだが、薄いベージュの外壁の色の所為(せい)かもしれない。玄関を入ると左右に下駄箱、左が一階の住人用、右が二階の……。その一箱がボク用だ。そう、部屋は二階。広い階段を上ると直ぐ正面に共同“便所”。その隣がやはり共同の炊事場。広くて暗い廊下。そうだ、古めかしくオンボロの印象は、この広くて暗い廊下にも一因がある。右側、おしまいから二つめの部屋。そこがボクの部屋。四畳半の広い部屋。布団、鍋、釜、机、トランク、ボストンバッグ。それでもまだ“余白”部分が残っている。広い……」(石ノ森章太郎著「章説トキワ荘の青春」、中公文庫)

マンガ家たちが住んだ2階部分の再現。4畳半の部屋が向かい合わせに10室あり、部屋のドアは皆開けっ放しだったという=撮影・天野久樹
マンガ家たちが住んだ2階部分の再現。4畳半の部屋が向かい合わせに10室あり、部屋のドアは皆開けっ放しだったという=撮影・天野久樹

宮城から上京して1カ月、新宿区西落合の下宿屋の2畳半からトキワ荘2階の4畳半に引っ越した時の感激を、石ノ森はのちにこう記している。その石ノ森がマンガミュージアムに足を踏み入れたなら、60年前にタイムスリップした気分になったに違いない。

ミシッ、ミシッときしむ階段。くみ取り式の共同トイレ。4つの蛇口を全部開けっ放しにして、風呂代わりに使った共同炊事場の流し台。そこはまさしく、石ノ森たちが青春時代を過ごしたトキワ荘……。

徹底した聞き取りと職人技で出した1960年代初めの風合い

トキワ荘は1952年12月6日、豊島区椎名町5丁目2253番地(現・南長崎3丁目16番)に棟上げされた。当時としてはごく普通の木造モルタル2階建てアパートで、家賃は月3000円だった。

翌53年、雑誌「漫画少年」を発行していた学童社の紹介で手塚治虫が入居。同じく学童社の紹介で「スポーツマン金太郎」の寺田ヒロオ、その後も、手塚を慕う若く才能のあるマンガ家たち、「ドラえもん」の藤子・F・不二雄、「怪物くん」の藤子不二雄Ⓐ、「仮面ライダー」の石ノ森、「天才バカボン」の赤塚不二夫ら、数多くのマンガ家が次々と引っ越してきた。手塚が54年に雑司ヶ谷の並木ハウスに転居した後も、リーダー格の寺田ヒロオが後輩たちをまとめて「新漫画党」を結成。やがてトキワ荘は「マンガ家の梁山泊」と呼ばれるようになる。

トキワ荘跡地から約300㍍の区立南長崎花咲公園(トキワ荘公園)に建てられたマンガミュージアムは、経年変化を表現するエイジングと呼ばれる技術を駆使して、石ノ森らが暮らした「築10年ぐらい」の風合いを醸している。

雨や土で汚れたような外壁。仕事場兼居室の日焼けした畳。共同炊事場の調理台の上に置かれたラーメンどんぶりは、トキワ荘の住人たちが通った中華料理店「松葉」の名前入り。当時店で使っていた物が3つ残っており、そのうちの1つを分けてもらった。

共同炊事場もリアルに再現。奥の流し台では、赤塚や石ノ森がよく水浴びした=撮影・天野久樹
共同炊事場もリアルに再現。奥の流し台では、赤塚や石ノ森がよく水浴びした=撮影・天野久樹

建築・展示設計を担当したのは、石ノ森萬画館(宮城県石巻市)や横手市増田まんが美術館(秋田県横手市)のリニューアルなどを手掛けた実績を持つ丹青社。同社グループの文化空間の専門シンクタンク、丹青研究所が2010年に調査を開始。収集した資料を基に協力して復元プロジェクトに挑んだ。

同社クリエイティブディレクターの加藤剛さんは、「建物の設計図は残されていなかったが、解体中の写真が見つかり、大方の構造と間取りが分かった。当時の住人たちから提供してもらった建物内外の写真は、大半が老朽化した晩年のものや白黒写真だったので、聞き取り調査を重ねて当時の色合いやさび具合に近づけた」と話す。

マンガ家たちが聞き耳を立てた階段のきしみ音

トキワ荘は木造モルタルだった。生まれ変わったマンガミュージアムは現在の建築基準法に従い鉄筋だが、壁を二重にしてその間に鉄骨柱を隠し、木造アパートのように見せている。天井の木目模様も、解体時に手塚が「リボンの騎士」の主人公サファイアと自画像を描いて地元記者クラブに寄贈した天井板と同じものが再現されている。区の郷土資料館に保存されていた数枚の天井板を、高精細度カメラで撮って不燃シートを作り、木の質感を出した。

中でも工夫したのは階段のきしみ音だ。「当時のマンガ家たちにとって、階段を上がってくるきしみ音は、編集者からの仕事の依頼か、はたまた原稿の取り立てか、とても気になる音だったという。それだけに、その再現は重要なポイントだった。既存の建築物へ展示設計するのではなく、建築設計から携わらせていただいたことで、こうしたこだわりが実現できた」と加藤さんは振り返る。

踏み板とスチール板の土台の間に敷く下地材を調整して、歩くとたわむようにしたうえ、踏み板と蹴込み板のつなぎ目に隙間をつくって松ヤニを塗り、きしみ音をより出やすくした。

部屋は小さくても、夢は宇宙と同じくらい大きかった

それにしてもなぜ、ここまで細部にこだわったのか。「トキワ荘というのはファンにとって特別な存在。彼らの期待にできるだけ応えたい、という思いがあった」と加藤さんは振り返る。「例えば、ついさっきまでマンガを描いていたような使用感を大切にした。それだけに『トイレがすごく匂ってきそうだ』といったツイッターでの反響は、われわれにとって最大の褒め言葉」と加藤さんは笑う。

赤塚不二夫の部屋には仕事机があり、描きかけの原稿の前で記念撮影ができる(現在はコロナ対策のため休止中)=撮影・天野久樹
仕事机が置かれて、描きかけの原稿の前で記念撮影ができる部屋もある(現在はコロナ対策のため休止中)=撮影・天野久樹

ただ、トキワ荘マンガミュージアムは、単なる「レトロな昭和のアパート」でも、そしてそこに集った「若者たちの夢の跡」でもない。トキワ荘マンガミュージアム運営検討会議の座長を務めた里中満智子さん(日本漫画家協会理事長)は力説する。

「今や世界に冠たる日本のマンガとアニメだが、かつてはマンガ家になりたいと言っただけで周囲から変人扱いされたもの。そんな時代に、トキワ荘の先輩方は相当な勇気とチャレンジ精神でマンガの世界に飛び込んだ。まさに部屋は小さくとも夢は大きく、だった。そして、お互いに刺激し合い、励まし合い、支え合って、自分たちの個性を伸ばしていった。先輩たちの作品にどれだけ憧れても、自分は絶対違うものを描くぞ、というチャレンジ精神とオリジナリティーの追求。トキワ荘で生まれた日本のマンガ・アニメの神髄をここで検証し、企画展などを通して世界や後世に伝えることが大切なのです」

トキワ荘の漫画家の紅一点、水野英子の部屋。女性少女漫画家の草分けで、18歳の時、トランクケース1個で山口県下関から上京し、赤塚・石ノ森と合作で作品を描いた=撮影・天野久樹
トキワ荘の漫画家の紅一点、水野英子の部屋。女性少女漫画家の草分けで、18歳の時、トランクケース1個で山口県下関から上京し、赤塚・石ノ森と合作で作品を描いた=撮影・天野久樹

若い人を呼び込み、シャッター商店街を再生させたい

一方、地域住民たちは、トキワ荘マンガミュージアムを商店街活性化への起爆剤として期待する。

戦後の復興期、池袋から近く、電車・バスの便もいい椎名町には、地方から上京してきた若者たちを受け入れる木造賃貸アパートが次々と建てられた。全長500mの商店街には、200軒もの商店が立ち並び、毎日大勢の人でにぎわった。それが今では10数店まで減り、トキワ荘通りはシャッター商店街と化している。

としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会の広報担当を務める小出幹雄さんは、マンガミュージアム開館に合わせて、父親の代からトキワ荘公園前で営んできた時計店を畳み、古書業大手テイツーと手を組み、古本屋「ふるいちトキワ荘通り店」を開いた。トキワ荘ゆかりのマンガ家たちの書籍約7000冊やオリジナルグッズを販売するとともに喫茶スペースも設け、かつて石ノ森たちが通った喫茶店から「エデン」と名付けた。

「まずは自分が突破口になった。時間はかかるが若い人にどんどん空き店舗を活用してもらって独創性あふれる企画を打ち出し、活気のある商店街を取り戻したい」と小出さんは意気込む。

新型コロナウイルス感染拡大を受けて開館日が3月22日から7月7日に延期となったうえ、当面は事前入館予約制という制約が続くが、「トキワ荘効果」は着実に表れている。土・日曜、祝日の来館者は400人を超え、トキワ荘通りを周遊する家族連れの姿も目立つ。中華料理店「松葉」には、お目当ての「昔ながらのラーメン」を求めて行列ができている。

トキワ荘の友情が生んだ「ラーメン大好き小池さん」

トキワ荘とラーメンといえば、「オバケのQ太郎」をはじめ藤子マンガに頻繁に登場する「ラーメン大好き小池さん」は欠かせない。

小池さんは“実在”する。モデルとなったのは、現在、東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム館長を務める鈴木伸一さん。鈴木さんは、下関から上京し、1955年8月から約10カ月間、トキワ荘に暮らした。のちにアニメーション作家となり、藤子不二雄らとアニメ企画・制作会社「スタジオゼロ」を立ち上げ、「おそ松くん」「パーマン」などを世に出す。

南長崎公園にある鈴木伸一さん自筆のラーメン屋台モニュメント。藤子漫画の小池さんは、いつも眉間にしわを寄せているが、こちらはいつも笑顔 ©鈴木伸一 提供:豊島区
南長崎公園にある鈴木伸一さん自筆のラーメン屋台モニュメント。藤子マンガの小池さんは、いつも眉間にしわを寄せているが、こちらはいつも笑顔 ©鈴木伸一 提供:豊島区

その鈴木さんが明かす「小池さん誕生」秘話に、トキワ荘の住人たちの友情が凝縮されている。

「当時、仲間の誕生日に似顔絵を描いて贈る習慣があった。僕の誕生日にも皆が描いてくれたがどうも似ていない。その時、誰かは忘れたが、グジャグジャ髪の顔を描いたところ、一同『おもしろい!』と大うけした。しばらく経ってオバQの中で、その顔を見た時には驚いたよ。でもうれしかったな。藤子さんはあの時のことを忘れていなかった。僕も自分の似顔絵として、雰囲気を変えて使っています」

ちなみに、『鈴木』なのに『小池さん』なのは、鈴木さんはトキワ荘を出て小池家に下宿していたので、苗字が小池だと誤解されて、そのまま定着したのだという。

トキワ荘に集うマンガ家の卵たちは皆貧乏だったが、食費や洋服代、銭湯代を節約する傍ら、仲間との交際費や映画、書籍などの教養・娯楽費は惜しまなかったという。

「マンガの話はほとんどしなかった。最近観た映画とかSFや推理小説といった読んだ本の話ばっかり。でも、こうした仲間との雑談や遊び、旅行のすべてがマンガの栄養源になった。一人が成功したらみんなで喜び合い、応援が必要な時にはアシスタントとして助ける。そんなトキワ荘の雰囲気を、4畳半の畳の上に座って感じてくれたら、赤塚さんも石ノ森さんも喜ぶだろうな」と言って鈴木さんは目を細めた。

豊島区立トキワ荘マンガミュージアム

  • 開館時間:10時~18時(入館は17時30分まで)
  • 休館日:月曜(祝日の場合は翌平日)、年末年始、展示替え期間
  • 入館料:無料(企画展は有料の場合あり)
  • 住所:東京都豊島区南長崎3-9-22 南長崎花咲公園内
  • TEL:03-6912-7706
  • アクセス:都営大江戸線 落合南長崎駅徒歩5分、西武池袋線 東長崎駅徒歩10分、椎名町駅徒歩15分
  • 公式HP:https://www.tokiwasomm.jp

バナー写真:トキワ荘マンガミュージアムの外観。「トキワ荘」と大書された四角柱の看板や玄関脇のシュロの木も再現された=撮影・天野久樹

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