江戸の怪談集「百物語」からひも解く日本人の遊び心―怪異の「怖い」を遊び、妖怪の「カワイイ」を楽しむ

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猛暑とコロナ禍の今夏、疫病退散の妖怪「アマビエ」グッズを買い求め、お化け屋敷で背筋の凍るような「冷たい」体験を楽しんだ人もいるだろう。幽霊、化け物などの怪異を怖がって楽しみ、妖怪キャラクターをマスコットとして身近に置いて親しむ。「怖い」「カワイイ」を楽しむ感性が併存する日本の怪異・妖怪文化について、民俗学者の湯本豪一さんに話を聞いた。

湯本 豪一 YUMOTO Kōichi

民俗学者・妖怪研究家。1950年東京都墨田区生まれ。川崎市市民ミュージアム学芸員、学芸室長を歴任。30年以上にわたり妖怪資料の収集と保存、およびその必要性についての発信に注力する。湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)名誉館長。

コロナ禍で夏の風物詩であるお祭りや花火大会の多くが中止された2020年の夏。だが、季節限定の「お化け屋敷」は健在だったようだ。中には、襲い掛かる「亡者たち」とのソーシャルディスタンスが万全の「ドライブインお化け屋敷」や、Skype、Zoomを活用した「配信型リアルタイムホラー」など、感染対策を演出に生かしたイベントも登場した。

さまざまな趣向を凝らして「怖がる」ことを楽しむ文化は、江戸時代から現在まで、脈々と受け継がれていると、妖怪研究家の湯本豪一さんは言う。庶民が「怖さ」を楽しむことが一般的になった江戸時代に、怖い話を集めた「百物語」が、怪談会や書籍などさまざまな形式で展開されて大きな広がりを見せた。怪談会の「百物語」は、何本も灯りをともして、怪談が一話終わるごとに一つずつ灯りを消していき、最後の一つが消えて場が闇に包まれると怪異が起こるという言い伝えに基づいている。

「『百物語』の起源ははっきりしませんが、もともとは室町時代の武士の肝試しが始まりといわれています。それが怖さを楽しむ遊びとして庶民の間にも広がり、流行したのが江戸時代です」

諸国で集めた「証拠正しき」怪異談

「“百”と言っても、実際に100話の怪談を語るわけではありません。『八百万(やおよろず)の神』と表現するのと同様に、たくさんの怪談物語という意味です。百物語怪談会がはやるとともに、『諸国百物語』(1677年)、『御伽百物語』(1706年)など、何話もの怪談を収録して題名に『百物語』と付けた版本が出版されました。実際に100話収録しているのは『諸国百物語』だけです」と湯本さんは説明する。

葛飾北斎の「百物語―さらやしき」<提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>
葛飾北斎の「百物語―さらやしき」<提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>

「手描きの書籍である写本もありますが、大量配布はできません。木版印刷による版本が普及したからこそ、百物語が流行したのです。怪談会を盛り上げるために幽霊の掛け軸を飾るなどの趣向を凝らすことも多かった。錦絵でも、葛飾北斎が描いた『北斎百物語』など百物語を画題にした作品が登場しています」

百物語には、どんな話が収録されていたのだろうか。

「しっかりと構築された物語ではなく、怪談会をまねて、『かの地でこんな話が伝わっている』『私はある人からこんなことを聞きましたよ』など、みんなが見聞きして持ち寄った話を集めたという形式をとっています。また、『諸国百物語』の序で、あちらこちらで起きた『証拠正しき』話とうたっているように、どこで誰が体験した出来事かを記した“リアリティー”が人々を引き付けました」

『諸国百物語』巻の三から。安倍宗兵衛という男の妻が、夫にいじめられた末に病死し、怨霊となって復讐する話(提供:人文学オープンデータ共同利用センター)
『諸国百物語』巻の三から。安倍宗兵衛という男の妻が、夫にいじめられた末に病死し、怨霊となって復讐する話(提供:人文学オープンデータ共同利用センター

百物語の嚆矢(こうし)といわれる『諸国百物語』は全5巻、北は東北、南は九州までおよび、内容は幽霊を扱ったものが3分の1を占める。例えば、出産の際に他界した前妻の亡霊が、自分に悪い呪文を掛けていた後妻に仕返しして首を取って殺してしまう話など、嫉妬や復讐(ふくしゅう)にまつわる幽霊談が多い。その他の話ではヘビやキツネ、タヌキ、ネコなどの動物の妖(あやかし)や、えたいの知れない化け物が出現する。

「現代の“都市伝説”も『本当に起きた話』として語られますが、情報社会ですから、どこそこの場所でこんなことがあったと聞けばネットで調べたり、自分で行って確かめたりもできる。でも江戸時代の庶民はなかなか生まれた場所から離れられません。みんなが集まって『東北の方でこんなことがあったよ』と話しても、確かめようがないからこそリアリティーが増し、各自が想像を巡らせて楽しんだのです」

『絵本百物語』(部分)/江戸時代。1841年刊行された全5巻の版本。図版は「小豆洗い」。越後(新潟県)高田にあった寺の小僧が悪僧に殺されて霊となり、夜な夜な出現。川べりで小豆を洗っている。生前数を数えるのが得意で、小豆を洗うだけで、正確にその数を言い当てたという <提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>
『絵本百物語』(部分)/江戸時代。1841年に刊行された全5巻の版本。図版は「小豆洗い」。越後(新潟県)高田にあった寺の小僧が悪僧に殺されて霊となり、夜な夜な出現。川べりで小豆を洗っている。生前数を数えるのが得意で、小豆を洗うだけで、正確にその数を言い当てたという <提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>

広島市三次に伝わる特異な怪異談「稲生物怪録」

百物語は近・現代の作家たちに創作のインスピレーションを与えた―ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や森鴎外、岡本綺堂、現代では京極夏彦などがその代表格だ。また、肝試しをしてからさまざまな妖怪変化が出現したという江戸時代の特異な「体験談」で多くの文化人を魅了したのは、広島市三次(みよし)市に伝わる「稲生物怪(もののけ)録」だ。

1749年旧暦7月、三次の稲生家で16歳の少年、稲生平太郎が1カ月もの間、昼夜の別なくさまざまな妖怪や怪異に脅かされるが、耐え抜くという物語だ。その中には、平太郎が肝試しに百物語を行う様子も記されている。後に平太郎が江戸詰め(参勤交代で、諸国の大名・家臣が江戸にある藩邸で勤務したこと)として藩邸に出仕していた時に、同僚に自ら少年時代に遭遇した怪異を語ったとされている。

「この話は地元だけではなく、江戸時代に絵巻や写本、絵本などの形で広がりました。写本なので、何百と作られたわけではありませんが、当時貸本はあったので、多くの人が借りて読んでいたのではと思われます。絵巻に描かれた妖怪たちの描写は、強烈なインパクトを与えるものや、稚拙だったり、かわいかったり、バリエーションがありました」

笑い声を上げ、髪の毛を足のように使い逆立ちして歩きまわる女の生首、寝ている平太郎の顔をなめまわす天井に張り付いた巨大な老婆の顔など、まさに妖怪のオンパレードだ。江戸時代の国学者・平田篤胤(あつたね)は並々ならぬ関心を示して研究に取り組み、明治時代以降は、泉鏡花、巌谷小波(さざなみ)、稲垣足穂(たるほ)などが魅了されて、この怪異談をモチーフにした作品を書いている。

『(仮称)稲生物怪録絵巻』(部分)/江戸時代。1749年7月1日に起きた怪異。左側は塀の上に現れた大男の腕につかまれた平太郎。平太郎と一緒に肝試しをした隣家の権八のところにも一つ目の妖怪が出現した(右側)<提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>
『(仮称)稲生物怪録絵巻』(部分)/江戸時代。1749年7月1日に起きた怪異。左側は塀の上に現れた大男の腕につかまれた平太郎。平太郎と一緒に肝試しをした隣家の権八のところにも一つ目の妖怪が出現した(右側)<提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>

『百物語絵巻』(部分)/明治時代。明治以降も『稲生物怪録』はさまざまな作品のテーマになった。上の場面は7月30日に起きた怪異。座敷の炉から出現した灰の妖怪。座敷にはたくさんのミミズもはい出ている <提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>
『百物語絵巻』(部分)/明治時代。明治以降も『稲生物怪録』はさまざまな作品のテーマになった。上の場面は7月30日に起きた怪異。座敷の炉から出現した灰の妖怪。座敷にはたくさんのミミズもはい出ている <提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>

「怖い」と「カワイイ」の併存

妖怪は自然への畏怖や闇を恐れる人の心が生み出したものだ。湯本さんは言う。「江戸の庶民は、闇の中で何かがうごめく気配に対して、アンテナが研ぎ澄まされていました。街でさえ明かりがほとんどなかったので闇は身近にあり、遠くまで行かなくても、近所のコミュニティーで怖いうわさ話がいくつも生まれました」。都内には江戸時代に「本所七不思議」「麹町七不思議」「麻布七不思議」などと呼ばれた町の「七不思議」伝承が残っている。

怪異を怖がる気持ちがある一方で、妖怪を「カワイイ」と感じたり、友だちのように身近な存在として捉えたりする感性が育まれたのも江戸時代だった。その背景にあるのは、絵巻や錦絵などで目にする妖怪たちの愛らしい「ビジュアル」である。

「木版印刷が普及し、妖怪の絵を誰でも安く入手できるようになると、妖怪を身近な存在に感じるようになります。妖怪を怖くないと思う人が増えるにつれて、妖怪をかわいく表現する絵も増えました。百物語の流行と並行して、妖怪が着物の柄になったり、根付けになったり、子どもが遊ぶかるたやすごろくに描かれたりしたのです」

「お化けかるた」/江戸時代以降 <提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>
「お化けかるた」/江戸時代以降 <提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>

したたかに生き続ける妖怪たち

日本ほど豊かで多様な怪異・妖怪文化が花開いた国はほかにないのではと、湯本さんは考えている。

「例えば英国などヨーロッパでは、キリスト教を背景にしたゴーストやデーモンの怪異談がほとんどでしょう。日本では中国の怪異談の翻案や仏教の因果話もありますが、それだけに縛られずアニミズム的な要素が特徴的です。その代表が付喪(つくも)神で、器物が年を取ると魂を宿すという考え方から生み出されました。どんなモノでも妖怪になり、さまざまな絵が描かれました」

明治時代には、人力車、ランプ、洋傘の妖怪も登場した。蒸気機関車が導入されて鉄道が普及すると、タヌキが汽車に化ける話、写真が普及すると心霊写真などの怪異談も広まった。

「怪異は、時代に応じて社会の変遷にしたたかに入り込み、生き続けているのです。そして、妖怪を怖いと同時に、身近に感じる感性はいまも変わりません。毎夏、テレビで怪奇特集が放映されると、1人でトイレに行くのも怖いのに、手元に置いてある携帯にはかわいい妖怪のストラップをつけていたりする。そんなことがよくあるはずです」 

現代の妖怪ブームの火付け役といわれる水木しげるのマンガや京極夏彦の怪異小説の人気も、江戸時代から連綿と続く妖怪文化の土壌があるからこそだと、湯本さんは言う。

「カッパや鬼、天狗(てんぐ)と聞けば、ほとんどの人がそのイメージを思い浮かべる。親や学校の先生から教わったわけではなく、江戸時代から連綿と続く妖怪文化を、みんなが受け継いでいるんです。だからこそ、(水木作品の)鬼太郎が広く受け入れられる。そして、水木しげるの影響を受けて妖怪マンガを描きたいという人もいれば、妖怪を研究する人もいるという具合に、裾野が広がり、文化が継承されるのです」

妖怪文化の継承と「Yōkai」の世界発信

2019年4月、「稲生物怪録」が生まれた地・広島県三次市に、「湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)」がオープンした。湯本さんが30年かけて収集した妖怪関連の書物、絵巻、玩具など妖怪関連のコレクション約5000点がベースになっている。

国際日本文化研究センターが妖怪データベースを構築するなど、妖怪研究のための基礎づくりにも重点が置かれるようになってきましたが、それとは別に妖怪に特化した博物館を作りたかった。現状では、研究対象にならない妖怪資料は忘れ去られてしまう危うさがあります。研究と同時に、資料を後世に残すための専門の博物館が必要です。地域活性化のための観光資源としての施設であるだけではだめです。妖怪文化を後世に継承するという理念を共有する専門スタッフが、資料の展示・保存に適した湿度、照明を確認しながら、必要に応じて補修などをしっかり行うと同時に、研究の場でもある博物館にしなければなりません」

日本の妖怪文化を海外に伝えることにも積極的だ。2018年、「日本・スペイン外交関係樹立150周年記念」行事の一環として、湯本コレクションの一部をマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーで展示した。21年には、世界各地を巡回する展覧会を計画しているそうだ。

「日本のユニークな文化としての妖怪の魅力をもっと世界に伝えたい。いまでは『Manga』は国際語ですが、『Yōkai』も国際語になりつつあります」

バナー写真:『百物語絵巻』(部分)/明治時代 林熊太郎 全2巻 <提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>

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