
江戸の怪談集「百物語」からひも解く日本人の遊び心―怪異の「怖い」を遊び、妖怪の「カワイイ」を楽しむ
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コロナ禍で夏の風物詩であるお祭りや花火大会の多くが中止された2020年の夏。だが、季節限定の「お化け屋敷」は健在だったようだ。中には、襲い掛かる「亡者たち」とのソーシャルディスタンスが万全の「ドライブインお化け屋敷」や、Skype、Zoomを活用した「配信型リアルタイムホラー」など、感染対策を演出に生かしたイベントも登場した。
さまざまな趣向を凝らして「怖がる」ことを楽しむ文化は、江戸時代から現在まで、脈々と受け継がれていると、妖怪研究家の湯本豪一さんは言う。庶民が「怖さ」を楽しむことが一般的になった江戸時代に、怖い話を集めた「百物語」が、怪談会や書籍などさまざまな形式で展開されて大きな広がりを見せた。怪談会の「百物語」は、何本も灯りをともして、怪談が一話終わるごとに一つずつ灯りを消していき、最後の一つが消えて場が闇に包まれると怪異が起こるという言い伝えに基づいている。
「『百物語』の起源ははっきりしませんが、もともとは室町時代の武士の肝試しが始まりといわれています。それが怖さを楽しむ遊びとして庶民の間にも広がり、流行したのが江戸時代です」
諸国で集めた「証拠正しき」怪異談
「“百”と言っても、実際に100話の怪談を語るわけではありません。『八百万(やおよろず)の神』と表現するのと同様に、たくさんの怪談物語という意味です。百物語怪談会がはやるとともに、『諸国百物語』(1677年)、『御伽百物語』(1706年)など、何話もの怪談を収録して題名に『百物語』と付けた版本が出版されました。実際に100話収録しているのは『諸国百物語』だけです」と湯本さんは説明する。
葛飾北斎の「百物語―さらやしき」<提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>
「手描きの書籍である写本もありますが、大量配布はできません。木版印刷による版本が普及したからこそ、百物語が流行したのです。怪談会を盛り上げるために幽霊の掛け軸を飾るなどの趣向を凝らすことも多かった。錦絵でも、葛飾北斎が描いた『北斎百物語』など百物語を画題にした作品が登場しています」
百物語には、どんな話が収録されていたのだろうか。
「しっかりと構築された物語ではなく、怪談会をまねて、『かの地でこんな話が伝わっている』『私はある人からこんなことを聞きましたよ』など、みんなが見聞きして持ち寄った話を集めたという形式をとっています。また、『諸国百物語』の序で、あちらこちらで起きた『証拠正しき』話とうたっているように、どこで誰が体験した出来事かを記した“リアリティー”が人々を引き付けました」
『諸国百物語』巻の三から。安倍宗兵衛という男の妻が、夫にいじめられた末に病死し、怨霊となって復讐する話(提供:人文学オープンデータ共同利用センター)
百物語の嚆矢(こうし)といわれる『諸国百物語』は全5巻、北は東北、南は九州までおよび、内容は幽霊を扱ったものが3分の1を占める。例えば、出産の際に他界した前妻の亡霊が、自分に悪い呪文を掛けていた後妻に仕返しして首を取って殺してしまう話など、嫉妬や復讐(ふくしゅう)にまつわる幽霊談が多い。その他の話ではヘビやキツネ、タヌキ、ネコなどの動物の妖(あやかし)や、えたいの知れない化け物が出現する。
「現代の“都市伝説”も『本当に起きた話』として語られますが、情報社会ですから、どこそこの場所でこんなことがあったと聞けばネットで調べたり、自分で行って確かめたりもできる。でも江戸時代の庶民はなかなか生まれた場所から離れられません。みんなが集まって『東北の方でこんなことがあったよ』と話しても、確かめようがないからこそリアリティーが増し、各自が想像を巡らせて楽しんだのです」
『絵本百物語』(部分)/江戸時代。1841年に刊行された全5巻の版本。図版は「小豆洗い」。越後(新潟県)高田にあった寺の小僧が悪僧に殺されて霊となり、夜な夜な出現。川べりで小豆を洗っている。生前数を数えるのが得意で、小豆を洗うだけで、正確にその数を言い当てたという <提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>
広島市三次に伝わる特異な怪異談「稲生物怪録」
百物語は近・現代の作家たちに創作のインスピレーションを与えた―ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や森鴎外、岡本綺堂、現代では京極夏彦などがその代表格だ。また、肝試しをしてからさまざまな妖怪変化が出現したという江戸時代の特異な「体験談」で多くの文化人を魅了したのは、広島市三次(みよし)市に伝わる「稲生物怪(もののけ)録」だ。
1749年旧暦7月、三次の稲生家で16歳の少年、稲生平太郎が1カ月もの間、昼夜の別なくさまざまな妖怪や怪異に脅かされるが、耐え抜くという物語だ。その中には、平太郎が肝試しに百物語を行う様子も記されている。後に平太郎が江戸詰め(参勤交代で、諸国の大名・家臣が江戸にある藩邸で勤務したこと)として藩邸に出仕していた時に、同僚に自ら少年時代に遭遇した怪異を語ったとされている。
「この話は地元だけではなく、江戸時代に絵巻や写本、絵本などの形で広がりました。写本なので、何百と作られたわけではありませんが、当時貸本はあったので、多くの人が借りて読んでいたのではと思われます。絵巻に描かれた妖怪たちの描写は、強烈なインパクトを与えるものや、稚拙だったり、かわいかったり、バリエーションがありました」
笑い声を上げ、髪の毛を足のように使い逆立ちして歩きまわる女の生首、寝ている平太郎の顔をなめまわす天井に張り付いた巨大な老婆の顔など、まさに妖怪のオンパレードだ。江戸時代の国学者・平田篤胤(あつたね)は並々ならぬ関心を示して研究に取り組み、明治時代以降は、泉鏡花、巌谷小波(さざなみ)、稲垣足穂(たるほ)などが魅了されて、この怪異談をモチーフにした作品を書いている。
『(仮称)稲生物怪録絵巻』(部分)/江戸時代。1749年7月1日に起きた怪異。左側は塀の上に現れた大男の腕につかまれた平太郎。平太郎と一緒に肝試しをした隣家の権八のところにも一つ目の妖怪が出現した(右側)<提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>
『百物語絵巻』(部分)/明治時代。明治以降も『稲生物怪録』はさまざまな作品のテーマになった。上の場面は7月30日に起きた怪異。座敷の炉から出現した灰の妖怪。座敷にはたくさんのミミズもはい出ている <提供:湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵>