台湾を変えた日本人シリーズ:花蓮に私営移民村を最初に立ち上げた日本人 賀田金三郎

歴史

日本統治時代の台湾東部には、日本の地方から多くの農漁業者が移民した。その第一陣となった花蓮・賀田村への移民の道を開いたのは、山口県出身の賀田金三郎だった。民政長官・後藤新平の信頼を勝ち取り、花蓮に根付こうとした金三郎を待っていたのは、先住民族・タロコ族との激しい抗争だった。

台湾移民第1号の賀田移民村

台湾総督府は1909(明治42)年に官営移民事業に着手、1910年に台湾東部の花蓮港庁に最初の移民村として設立されたのが「吉野村」、その後、1913年に「豊田村」、1914年に「林田村」が相次いで、設立された。

実は、官営移民に先だって、私営移民が行われていた。その中心になったのが賀田金三郎(かだきんざぶろう)という人物だ。台湾で賀田組を立ち上げ、民間で移民を募り、賀田村を造った男である。

賀田金三郎(筆者提供)
賀田金三郎(筆者提供)

賀田金三郎は1857(安政4)年11月2日、山口県萩市で賀田家の長男として誕生した。同じ年の6月4日に岩手県水沢市では後藤新平が生まれている。二人はやがて台湾で出会うことになる。

金三郎が出生した頃の賀田家は二代目久兵衛が「坂田屋」の屋号で札差(仲買人)を営んでおり、全盛期を迎えていた。しかし、1880(明治13)年に父が、翌年には母が永眠した。金三郎24歳の時であった。金三郎が家督を継ぎ、弟の富次郎は上京し、大倉組(のちの大倉財閥)に就職した。「坂田屋」を継いだ金三郎は猪突(ちょとつ)猛進的に働くが、商いがうまくいかずわずか3年後には、藤田組(のちの藤田観光)に移籍していた富次郎を頼って上京。共に藤田組にて働くことになった。

1887(明治20)年4月、大倉組と藤田組は共同出資で、資本金500万円の2つの株式会社を創立した。一つは、陸海軍の軍需品用達を主業務とする「内外用達会社」で、もう一つは土木の請負を主業務とする「日本土木会社」である。

日清戦争を予期して広島へ進出

賀田兄弟は内外用達会社の社員となったが、1891(明治24)年5月、同社は解散となり、大倉組が業務を引き継いだ。金三郎は、愛媛県の大倉組伊豫(=伊予)松山支店主任として着任、実績を上げ広島支店長も兼務することとなる。日清戦争間近と考えた金三郎が、日本軍の大本営が設置される広島での仕事を望んだ結果である。ここでも金三郎は精力的に動き回り、軍需品の調達という大きな仕事を獲得し、成果を上げた。

1895(明治28)年、日清戦争で台湾を手に入れた日本は、台湾統治に乗り出した。大倉組は4月に金三郎を台湾の市場調査に送り込み、7月には大倉組台湾総支配人として赴任させた。金三郎38歳の時であった 。当時の台湾は、風土病はびこる「瘴癘(しょうれい)の地」であり、日本の統治を認めない抗日ゲリラが闊歩し、阿片中毒患者が多い島であった。台湾統治初期のインフラ整備需要を利用し、1897年には、台湾で大倉喜八郎・山下秀実らと「駅伝社」設立し、郵便や国庫金の輸送、労働者供給などの業務を手掛ける。

大倉喜八郎(筆者提供)
大倉喜八郎(国立国会図書館)

翌年には小野田セメントの台湾における一手販売契約を成功させる。これら一連の経営手腕を買われた金三郎は台湾総督府の信任を得ることになる。しかし、やがて「駅伝社」を悲劇が襲った。

武装勢力や先住民族が台湾各地の駅伝社の支店や出張所を襲撃し、現銀強奪や職員の殺害に加え、交通事情による郵便物、金銭物品の遅滞も発生し、その都度、違約金、賠償金が請求されるという予想をはるかに上回る損害が出たのである。

事態を知った大倉喜八郎は駅伝社の解散を決意するが、台湾には駅伝社が必要であると反対する金三郎と対立。金三郎は大倉組を辞め、1899(明治32)年5月、台北書院街1丁目2番戸に「賀田組」を設立して、社長には金三郎自身が、副社長には弟の富次郎が就任した。

花蓮に「賀田村」を造成

1898(明治31)年2月26日に第4代台湾総督に就任した児玉源太郎は、台湾東部の開発が遅々として進まないため、後藤新平民政長官から、「難問多けれど、発展すべき可能性は大なり」さらに「この開墾を実現できる人物は、金三郎が最適である」と報告を受けた。金三郎は「駅伝社」の経営を通して総督府に信用があっただけでなく、後藤長官が抱える難題の解決に尽力し、強い信頼関係を築いていた。

後藤新平(筆者提供)
後藤新平(国立国会図書館)

1899(明治32)年、金三郎は台湾総督府に台湾東部地区開発計画書を提出、同年11月16日に開拓許可が下りた。この時、金三郎が申請した開発の総面積は、約1万6000ヘクタールという広大な平原であった。総督府は、開墾期間を最長15年の条件を付けて許可した。賀田組は、この広大な東台湾地区の用地を利用して、製糖業以外に、防虫・防腐剤などとして使われる樟脳(しょうのう)の製造、畜産、運輸、移民事業などの多角経営に乗り出すことにした。

1902(明治35)年、賀田組の台湾東部開墾が本格的に始まった。120人の先住民族を雇用し、呉全城の地に初年度は100町歩、翌年は500町歩を開墾し「賀田村」を、さらに隣接する鯉魚尾の地を開墾し「壽村」を造った。

開墾した土地には、サトウキビ、タバコ、タロイモなどが植えられた。さらに、台湾在来種のサトウキビをハワイの品種に切り替えると共に新式の圧搾機を導入して近代化に取り組んだ。ところが、賀田村の運営が順調に進んでいた最中に、金三郎が最も頼りにしていた副社長で実弟の富次郎が急逝した。金三郎の落胆は大きく、打ちひしがれたが、事業に情熱を注いで悲しみを乗り越えるように働いた。

サトウキビの栽培に成功した賀田組は、新式の製糖工場を壽村に作り、一次精製となる粗糖の製造を開始した。この工場は、後に鹽水港製糖株式会社に合併され、戦後は台湾製糖公司へと受け継がれることになる。製糖事業を発展させ、東台湾地区での事業を軌道に乗せるには、どうしても人手を増やす必要があった。

台湾花蓮の玉里神社参道跡地(撮影:野嶋剛)
台湾花蓮の玉里神社参道跡地(撮影:野嶋剛)

日本から移民を募集

そこで、1906(明治39)年、日本からの移民を募集、約60戸、385人が移住してきた。さらに現地の台湾人やタロコ族を多く雇用して開墾を続けた。人手不足を解消した金三郎は花蓮の新しい産業である製糖業、樟脳製造業の発展に、胸を躍らせていたはずである。しかし、その夢は2カ月後に消えることになる。

呉全城の賀田村移民住居(筆者提供)
呉全城の賀田村移民住居(筆者提供)

当時、賀田組が樟脳の原料となるクスノキの伐採していた地域には、首狩りの風習のあるタロコ族が住んでいた。

賀田組は東台湾開発を始めた当初からこのタロコ族からの襲撃に備え、台湾総督府から大量の武器弾薬を購入し、日本に味方する一部のタロコ族に警備に当たらせていた。ところが、タロコ族内で借地料の分配を巡って抗争が起きた。

危険を感じた花蓮支庁長の大山十郎警部は、賀田組と協議し、威利事務所の閉鎖とクスノキ伐採の中止を決定、その旨を日本人に好意的なタロコ族に通達した。ところが収入を絶たれることになるタロコ族は、これまで友好的だった賀田組に対して逆恨みを抱くようになったのである。

威利社地区からの全面撤退決定直後の7月30日に、日本人のきこり2人がタロコ族の襲撃に遭った。さらに、翌31日には、5人が襲われた。大山警部は直ちに、賀田組威利事務所に残っていた従業員全員の避難を命じ、自らも救出のために威利事務所へと直行した。ところが、8月1日、大山警部、阿部巡査、賀田組職員の山田海三、喜多川貞次郎及び25人が避難を始めたその時、突然、タロコ族の集団が彼らを奇襲、全員を殺害した。これが世にいう「威利事件」である。

金三郎は共存していこうと思っていたタロコ族に裏切られた上に、大切な従業員の命を奪われ、威利事務所を焼き討ちされ、樟脳製造のための設備や大量の在庫までもが強奪された。8月19日には、別の賀田組の日本人きこり10人が再びタロコ族によって殺害されるという事件が発生した。

たった20日ほどの間に、賀田組関係者が40人もタロコ族によって殺害されたのである。怒髪天を衝くところまで来て、金三郎はタロコ族の討伐を、着任して間もない第5代佐久間左馬太総督に嘆願した。威利事件を知った佐久間総督は激怒し、タロコ族掃討に執念を燃やすことになる。

当然のことながら、威利事件は賀田移民村の住民にも大きな衝撃を与えた。固い決意を持たずに日本から逃げるようにして台湾に来ていた移民が多かったこともあり、いつ襲われるかもしれない恐怖に駆られた移民は、逃げ出した。農地は放置され、やがて廃村になった。台湾移民村第1号だった賀田村は、開村してわずか4年後には姿を消すことになったのである。今日、賀田移民村の痕跡を台湾で見つけることはできず、1940(昭和15)年に呉全城の地に造られていた鹽水港製糖株式會社の敷地に建立された「開拓記念碑」を見るのみである。

呉全城の鹽水港製糖工場風景(筆者提供)
呉全城の鹽水港製糖工場風景(筆者提供)

バナー写真=台湾花蓮の林田神社跡地(撮影:野嶋剛)

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