「台湾」で李登輝を研究する難しさ

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前原 志保 【Profile】

2020年7月30日、台湾の李登輝前総統が亡くなり、その死は日本でも大きな衝撃とともに報道された。その訃報が報じられてから、彼の功績についてあらゆるメディアでさまざまなエピソードとともに語られており、これからさらに特集が組まれたりするだろう。この大きな節目に際し、大学院時代から李登輝のことを研究してきた若手の研究者である自分にしか書けないものは何かと考えたうえで決めたテーマは「台湾で」李登輝を研究することに関する独特の難しさについてである。

李登輝が語る「私たち」は誰なのか

李登輝を研究するというのは本当に難しい。博士論文を書き上げた当時、世界中で出版されている李登輝の本は玉石混淆(こんこう)ではあったが100冊以上あった。私は最終的に「李登輝言論集」という李登輝の演説を全て収録した全集のうち総統在任時期(1988年から2000年)までの言論、スピーチを全て読み、その中で語られる「私たち」「彼ら」は誰なのか、そこに誰を包括して誰を包括していないのか、その12年間の変化、そして「台湾という場所」を「中華民国」という言葉を使用せずに語る時どのような語彙が使われてきたのかをつぶさに分析し、博士論文「李登輝と台湾アイデンティティー」を書き上げた。

ちなみに現在私たちが総統のスピーチで耳にする「台湾人」という言葉は李登輝時代にほとんど出てこない。「台湾人」という言葉が李登輝の演説の中で使われたのは12年間で50回。しかもその50回においてもそれぞれの文脈上の意味合いは、「日本統治時代の台湾人(統治者の日本人と非統治者の台湾人という階級意識)」、司馬遼太郎の対談の際に出てきた「台湾人に生まれた悲哀」に関する言及、「省籍問題としての外省人と本省人(台湾人)の対立」、1998年の台北市長選以降大きく取り上げられた多民族社会台湾を自由、民主、人権などの共通の理念や理想を持つ集団としてまとめるシビック・ナショナリズムとしての「新台湾人」のいずれかだ。現在私たちが違和感なく使用しているナショナル・アイデンティティーの意味合いの強い「台湾人」とは異なっていた。

私は李登輝の最も偉大な功績の一つは、彼が一国のリーダーとして「台湾人」に関する言論を率先して行なってきたことが台湾人のナショナル・アイデンティティー構築、台湾人の主体性構築に深く影響を及ぼしたことだと思っている。1988年から2000年までの彼の演説には試行錯誤が見える。台湾人のアイデンティティーを確立させたいという思いと中華民国の総統として中国人(中華民国の中国人)のアイデンティティーを代表する立場であるという思い、その微妙な狭間で言葉を慎重に選び、時には失敗し批判をされ、それでも少しずつ言論の範囲を広げてきた。長く続いた戒厳令や白色テロの影響の中、人々が自分の意見を大きな声で語れない中、李登輝さんの言論で「あ、これは言ってもいいのだ」「これはダメなのだ」とある程度分かりやすい指標を示す役割を果たしていたと思う。

博士論文審査の際、私のデータを見て審査していた各先生は二つの意見に分かれていた。一つは、李登輝の台湾アイデンティティーに関連する言論は全て計画的であったという説。もう一つは試行錯誤を繰り返すうちにたどり着いた結果という説だ。私はひとまず後者の方ではないかと思っている。

初めてお会いしたとき、私に「私が死んでからの方がいいのではないですか」と言った李登輝前総統は本当に私たちの前からいなくなってしまった。私は、何度かお会いして対話する機会に恵まれたけれども、李登輝という人間には、構成する重要な要素が多すぎて余計に混乱することが多かった。疑問に思ったことを直接聞いて答えが分かると思いきや、話をしているうちに今まで気が付かなかった課題に気付かされ、あれも調べなければ、これも調べなければということになる。本当に一筋縄ではいかない研究対象だった。だからこそこれからも研究する価値があると思っている。

英国で司馬遼太郎の『台湾紀行』を手に取り、司馬遼太郎と李登輝の対談「場所の悲哀」を読んで感動してから台湾研究を始めた一学生は、今も相変わらず「台湾政治研究」から抜けられないでいる。

バナー写真=李登輝氏(時事)

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前原 志保MAEHARA Shiho経歴・執筆一覧を見る

福岡県生まれ。カナダ ブリティッシュコロンビア大学卒業(東アジア研究)、英国リーズ大学修士課程修了(中国研究)、2014年国立台湾大学国家発展研究所で法学博士号取得。現在、九州大学人間環境学研究院台湾スタディーズ・プロジェクト特任助教。

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