「台湾」で李登輝を研究する難しさ

国際

2020年7月30日、台湾の李登輝前総統が亡くなり、その死は日本でも大きな衝撃とともに報道された。その訃報が報じられてから、彼の功績についてあらゆるメディアでさまざまなエピソードとともに語られており、これからさらに特集が組まれたりするだろう。この大きな節目に際し、大学院時代から李登輝のことを研究してきた若手の研究者である自分にしか書けないものは何かと考えたうえで決めたテーマは「台湾で」李登輝を研究することに関する独特の難しさについてである。

台湾での研究拠点探しの難しさ

修士課程を修了した2003年、台湾に語学留学をすることに決めたが、SARSの余波もあり、実際は翌2004年の2月から台湾に留学することになった。英国や日本での資料集めには限界があったので、本場台湾で研究を始めることができることにワクワクしていた。語学学校の初級に近いクラスからスタートして1年後には台湾の大学院の博士課程で研究をするのだと先生に伝え、必死で勉強をした。

どこの大学に入るのか、そしてどの研究所に入るのか悩んでいた頃、台湾人の友人に誘われて台湾大学日本語文学系の何瑞藤名誉教授の日台文化比較の授業を聴講させていただくことになった。何先生に今後のことを相談させていただき、どこに申請書を出すのか決めた。何先生は私が希望する台湾大学国家発展研究所の所長をよく知っているからと言ってアポイントを取り、私は緊張しつつ会いに行った。

私は当時の所長に自分が今までしていた李登輝研究とそれに対する熱意を、つたない中国語を補うように英語でアピールし、ここで研究がしたいと述べた。そうするとここでもまた、思いがけない一言を最後に言われるのだ。「這裡沒有你的位子。(ここにあなたの居場所はありません)」。しかるべき方からの紹介を経てそこに向かったのに、私は自分の何が悪かったのかと、とても混乱した。

その後、紆余(うよ)曲折を経て、私の居場所がないはずの台湾大学の国家発展研究所の博士課程に入った。ちなみに出願の際に書いた論文計画書は日本統治時代の台湾議会設置運動に関連するものだ。李登輝に関しては、論文計画書の最初のページに赤文字で「私は修士時代に李登輝研究をしていましたが、それは李登輝の思想や考えに賛同していたわけではなく、李登輝を研究対象として捉えていたものです」と書いて直筆のサインをした。李登輝が総統を辞めてから数年しか経過していないあの時点では、台湾の中で李登輝時代を冷静に振り返ることはまだ難しかったからだった。それでも、純粋な研究の場だと思っていた大学で、一外国人留学生の私にまで降りかかってくる問題だとは思いもしなかった。台湾では、各先生がそれぞれどの政党を支持しているのか、それを把握した上で議論を行うことは、たとえ外国人の留学生でもそれは必須のマナーなのだと後から思い知った。

私は博士課程に入ると元の李登輝研究に戻った。それには戦略的な理由があった。まず、やはり台湾政治に関する知識量やリソースへのアクセスは優秀な台湾人の学生にはどんなに頑張っても勝てないだろうと思った。日本人の私が台湾政治を研究する上で、台湾人の学生にまねできないものは何かを考えると、必然的に李登輝研究となった。李登輝の重要著作は日本語で書かれている。李登輝研究をするには日本語をかなりのレベルで理解しなければ難しい。李登輝に迫るには「日本語」で「日本人」であることが強みになる、そう考えた。もちろん、反対に日本人だからこそ見えないものもある。しかし、台湾の大学で、外国人が台湾政治を研究し、博士号を取得するためには、それなりの覚悟が必要だった。

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