父からの手紙―白色テロを生きた家族

文化 歴史

2020年5月、台湾の国家人権博物館から一冊の本が出版された。『高一生獄中家書』。少数民族ツォウ族のリーダーだった高一生(ウォグ・ヤタウユガナ)が、獄中から家族に送り続けた手紙56通が収められている。高一生は戦後の台湾で起こった中国国民党による弾圧、いわゆる白色テロの犠牲者のひとりだ。白色テロの全容は明らかでないが、少数民族の指導者たちも多数犠牲となった。彼らのような犠牲があって今の台湾があることを心に刻みつつ、高一生と家族の歩みを振り返る。

ちりばめられた暗号

手紙は逮捕直後の1952年9月14日から54年4月(日付不詳)までの1年7カ月の間に書かれた。最初の2通は慣れない中国語で、3通目以降、日本語で書くことを許された。ほとんどが「なつかしい春芳」で始まる手紙には、ケユパナやクアリアナなどの地元の地名や人名がカタカナで書かれ、メンデルスゾーンやゲーリー・クーパー、チャップリンも登場する。それらに紛れ込ませるように暗号がちりばめられていた。

ツォウ語である。「ウサナアオ」(会いに来い)、「アウプチヨ」(急いで)、「トウシニ」(助けて)などだ。いずれも地名であるかのように使われており、ウサナアオは9通の手紙に書かれていた。「私には面会出来ませんから あなたは家に留主(守)して下さい」と書いてある手紙の中にも「アウプチヨ」「ウサナアオ」「トウシニ」が潜ませてあった。

恋しい妻にどんなに会いたかったことか。長女、次女、三女が差し入れを持参し面会を試みたが、願いはかなわなかった。

54年1月17日以降、手紙は中国語で書かなければならなくなった。中国語のものがしばらく続いたあと、再び日本語となる。「私の無実な事が後で分ります」「畑でも山でも私の魂が何時でもついてゐます」。丁寧な筆致でこれらの言葉がしたためられた手紙が、最後となった。

同年4月17日、銃殺刑が執行された。高一生と同時に逮捕されたツォウ族の5人のうちの3人と、先述のタイヤル族のロシン・ワタンと、もう一人もこの日に処刑された。

高一生は逮捕以来、家族の誰とも会えず、7月の46歳の誕生日を迎えることもできなかった。家族は台中第一中学初中部に在学中だった英傑さんを慮(おもんぱか)り、悲報をすぐに知らせなかった。英傑さんが父の訃報に触れたのは約2カ月後、夏休みで実家に戻った時だった。

「母の嘆きぶりは見ていられないほどだった」。長女の菊花さんは父の死後も執拗(しつよう)な尋問を受け続けたが、歌手となって家族を支えた。どんな曲にも対応できたのは、「父と一緒にレコードをたくさん聞いていたおかげ」だった。

意に反して国民党軍を慰問することもあったという。ある時、父の処刑に立ち会ったという人物に遭遇した。彼は菊花さんが高一生の娘だと知ると、笑いながら父の最期の様子を聞かせたという。「本当にいやな男でした」。それでも、「生まれた時代が悪かっただけ」と自分の人生を静かに受け入れていた。

映画「台湾アイデンティティー」撮影時の高英傑氏、菊花氏、春英氏(左から、2012年)。英傑、春英両氏は素晴らしい歌声で「春の佐保姫」を聞かせくれた(🄫2013マクザム/太秦)
映画「台湾アイデンティティー」撮影時の高英傑氏、菊花氏、春英氏(左から、2012年)。英傑、春英両氏は素晴らしい歌声で「春の佐保姫」を聞かせくれた(🄫2013マクザム/太秦)

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