父からの手紙―白色テロを生きた家族

文化 歴史

酒井 充子 【Profile】

2020年5月、台湾の国家人権博物館から一冊の本が出版された。『高一生獄中家書』。少数民族ツォウ族のリーダーだった高一生(ウォグ・ヤタウユガナ)が、獄中から家族に送り続けた手紙56通が収められている。高一生は戦後の台湾で起こった中国国民党による弾圧、いわゆる白色テロの犠牲者のひとりだ。白色テロの全容は明らかでないが、少数民族の指導者たちも多数犠牲となった。彼らのような犠牲があって今の台湾があることを心に刻みつつ、高一生と家族の歩みを振り返る。

高一生として

時は移り、統治者は日本から中華民国に変わった。少数民族は「高砂族」から「高山族」そして「山地同胞」へと呼称が変わり、矢多一生は高一生となった。ある日、高一生は木の枝に逆さまにぶら下がってこう言ったという。「私はコウモリだ。日本人になったり、中国人になったり」。二つの時代を経験した彼は、矢多一生でも高一生でもなく、自分はツォウ族ウォグ・ヤタウユガナだと言いたかったに違いない。

呉鳳郷の初代郷長に就任した高一生は、家族とともにかつての駐在所に移り住んだ。一家が暮らした家は2000年に復元され、現在も達邦村にある。筆者は12年、菊花さんとともにそこを訪れた。家の中へ入った菊花さんは縁側に立ち、父親が小さな弟妹たちをおんぶしてピアノに向かい、「ドナウ川のさざなみ」を弾きながら、「ほら、そこにエビがいるよ」とあやしていた様子を語ってくれた。話し終えると、足早に出て行った後ろ姿が忘れられない。どんなすてきな思い出も、つらい体験を消すことはできない。

1947年の二二八事件の際、高一生は嘉義の治安維持という目的に限定して、ツォウ族の部隊を派遣したが、結果的に水上飛行場での銃撃戦に発展した。警察が調査をしたものの、ツォウ族からは逮捕者が出ず、ことなきを得た。この間、高一生は「矢多一生」の名前で、少数民族による「高山自治区」構想を記した「案内状」を発送した。各民族の代表による会議を開こうと呼び掛けたのだ。菊花さんは「自治(区構想)で目をつけられた」と残念がった。案内状は当局に押収され、会議は開かれなかった。

1954年9月10日、高一生はツォウ族の指導的立場にあった5人とともに突然逮捕され、翌日台北に移送された。当初の罪状は非合法組織への参加と農場経営に関わる汚職だったが、のちに「スパイ反乱罪」となる。前年12月に生まれたばかりの末っ子はまだハイハイを卒業していなかった。20歳だった菊花さんは準備していた米国留学を断念。台中師範簡易先修班(補修班)で学んでいた英傑さんは毎週日曜日、「無罪で釈放されてほしい」と願いつつ、台中駅のホームで台北からの下り列車に父の姿を探したのだった。

「ウサナアオ」のある手紙(1953年3月15日付、「高一生獄中家書」より)
「ウサナアオ」のある手紙(1953年3月15日付、「高一生獄中家書」より)

高一生最後の手紙(筆者撮影、2012年)
高一生最後の手紙(筆者撮影、2012年)

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台湾 日本統治時代

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映画監督。山口県周南市生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒。メーカー勤務、新聞記者を経て2009年、台湾の日本語世代に取材した初監督作品『台湾人生』公開。ほかに『空を拓く-建築家・郭茂林という男』(13)、『台湾アイデンティティー』(13)、『ふたつの祖国、ひとつの愛-イ・ジュンソプの妻-』(14)、『台湾萬歳』(17)、著書に「台湾人生」(光文社)がある。現在、台湾の離島・蘭嶼を舞台に次作を制作中。

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