若林正丈の「私の台湾研究人生」

私の台湾研究人生:「李登輝は台湾のサダトになる」

政治・外交

若林 正丈 【Profile】

香港から観察した台湾は時代の変わり目に差し掛かっていた。のちに台湾初の民選総統となる李登輝の名前も蒋経国の後継者として一部で上がり始めたが、本命視はされていなかった。その中で、エジプトの大政治家になったサダトのように、李登輝が総統になれば、一気に豹変(ひょうへん)することを予言した人物がいた。

蒋孝武本命説?

下荒地氏の言のように、厳家淦の前例があるので、蒋経国に万一のことがあってもとりあえず総統職は副総統が継げばよい。しかし、問題は国民党一党支配体制において、誰が実権を握ることになるのかであった。この問題は、後の民主化により自立した反対政党の存在が可能となり、総統職が一人一票の直接選挙で選出される制度が形成されてようやく解消することになるのだが、当時の国民党一党支配体制を前提とすれば、誰が総統になっても、必ずしもその人物が蒋父子のような実権を握るとは考えられていなかった。

前記耿榮水氏は84年夏、別の筆名で別の雑誌に「再論:誰が蒋経国の後継者か」を書いた。一連の人事が終わった後なのでその顔ぶれと順位は一変していたが、誰が後継者になっても過渡期のリーダーとなるだろうとの前提を置いていた。ちなみにその顔ぶれと順番は、第一位李登輝、以下李煥(1917-2010年)、李元蔟(法務部長、教育部長を歴任した法学者、後に李登輝の元で副総統となった)、陳履安(戦後農地改革を主導し行政院長、副総統まで上り詰めた陳誠の息子)、赫伯村(当時参謀総長:1919-2020年)、徐立徳(当時経済部長)であった。

こうした議論の中で有力と見られていたのは、蒋経国の信頼厚いと伝えられた李煥だったが、香港に来てから私は蒋孝武本命説と李登輝本命説という二つの意外な見方を耳にした。前者は台湾から伝わってきた見方で、根拠は85年1月の台北第十信用金庫スキャンダルに巻き込まれ辞任に追い込まれた蒋彦士の後任の国民党中央秘書長に「宮廷派」の馬樹礼が起用されたこと、一時江南事件の背後にその人ありとNew York Timesに書かれた蒋孝武(1945-1991年)だが、蒋経国が汪希苓らの断罪を決断し米国も追究を止めたため、危機を逃げ切ったのだから後継になる態勢構築に有利となったというにあった。

これは台湾の蒋家王朝はまだまだ続くのだと信じない限り、真面目には受け取れないような議論で、その寿命は短かった。8月中旬、蒋経国は米国のTime誌のインタビューと12月25日の中華民国憲法施行記念日の演説と半年をおかず2度にわたって「総統職は憲法に従って選ばれるもので、蒋家の者が選挙にでることはあり得ない」と言明し、さらに翌年2月、このできの良くない次男をシンガポール駐在代表に任命して外に出してしまったのである。もちろん、言葉の上だけでは、蒋家の者が実権を持たないことを保証しない。ただ、今もう一度当時を思い起こすと、台湾内部から、また米国から、蒋家の威信は激しい脅威にさらされていた状況での発言だったことがわかる。前回書いたように、次男の関与の証拠を米捜査当局に握られているかもしれない事態になったことは蒋経国個人にとってもたいへんな痛手であったことは言うまでもない。

『蒋経国伝』の作者が暗殺されたことをきっかけに、世論の中でこれまで口コミでしか流通しなかったような蒋家のあれこれが表に出され、蒋経国一家はほとんど裸にされてしまった。1975年、康寧祥の『台湾政論』に始まり、美麗島事件後に爆発的に拡大した「党外雑誌」というメディアによる政治論議の拡大がその背景にある。11月、地方選挙観察に訪台した際は、台北の「党外」候補の演説会の雑踏の中に公然と蒋経国批判のプラカードを掲げるキリスト教系の新興宗教団体「新約教会」の姿を目にした。一党支配体制と蒋経国の独裁とに不具合が生じてきていることは明らかであった。こうした不具合を通じても、下からの民主運動と台湾ナショナリズムにとっての「自由の隙間」は拡大してしまったのである。

美麗島事件後続々と発行された「党外雑誌」(慈林社会運動史料中心の展示、筆者撮影)
美麗島事件後続々と発行された「党外雑誌」(慈林社会運動史料中心の展示、筆者撮影)

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早稲田大学名誉教授、同台湾研究所学術顧問。1949年生まれ。1974年東京大学国際学修士、1985年同大学・社会学博士。1994年東京大学大学院総合文化研究科教授などを経て2010年から2020年早稲田大学政治経済学術院教授・台湾研究所所長。1995年4月~96年3月台湾・中央研究院民族学研究所客員研究員、2006年4月~6月台湾・国立政治大学台湾史研究所客員教授。主な著書は『台湾の政治―中華民国台湾化の戦後史』(東京大学出版会、2008年)など。

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