台湾の日本語世代が集う友愛会――美しく正しい日本語を台湾に残したい人々の思い

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権田 猛資 【Profile】

「美しく正しい日本語を台湾に残す」ことを目指す友愛会。月に一度、台北市内で「日本語世代」の人々が集う日本語勉強会である。なぜ今なお、日本語を学び続けるのか。そこには日本語への深い愛着と切実な思いがあった。

台湾には、今も日常生活の中で日本語を多用あるいは常用している「日本語世代」と呼ばれる人々がいる。1895(明治28)年から1945(昭和20)年までの半世紀にわたって日本は台湾を統治した歴史があり、この時代の台湾で生まれ、日本語教育を受けた人々を指す。

毎月第三土曜日に台北市内で日本語世代が集う友愛会と呼ばれる日本語勉強会が開かれている。よわい80から90の人々が、台湾で暮らす日本人を講師に招き、日本語の詩やエッセイを朗読したり、ことわざや四字熟語の意味を考えたり、さらには最近の若者言葉をも学んでいる。

友愛会設立の歴史

友愛会は、1992年10月20日、1926年生まれで同会会長の陳絢暉氏(故人)を中心に、7人の日本語世代が発起人となって設立した「友愛日本語クラブ」を前身とする。  

同クラブが過去に発行していた会報『つつじ』の創刊号(1993年2月13日発行)に掲載されている「友愛日本語クラブ創立のことば」には、設立に至った背景として「正しい日本語、日本文を解し、過不足なくコミュニケーションをこなせる人材が、ますます減少しつつある」ことに対する日本語世代の憂いが記されている。

1945(昭和20)年に日本が敗戦した後、台湾は新たな外来政権である中華民国・国民党政府によって管轄された。中華民国・国民党政権下の台湾では、これまでの国語であった日本語に代わり、人々は「國語」の習得を余儀なくされた。単に國語を新たな言語として学習することを強いられただけでなく、中華民国・国民党政府にとって「敵性言語」にあたる日本語の使用は制限され、台湾土着の言語である台湾語の使用も公には許されない圧力が社会にまん延するようになった。また1949年から1987年までの38年間、台湾では戒厳令が敷かれていた。時代の変遷とともに圧力の程度は徐々に変化したものの、台湾人の人権や言論の自由は抑圧され、集会や結社なども長く禁止されていた。

陳氏らは、戒厳令が解除される前の台湾においても私的な食事会、同好会としての集まりを喫茶店で開いていたという。しかし、正式な友愛日本語クラブの設立を1992年まで待つ必要があったのは、このような戦後の台湾の歴史に由来する。

日本統治時代の終焉(しゅうえん)と中華民国・国民党政府による國語の普及に伴い、台湾における日本語は徐々に消失していったが、かつて日本語教育を受けた陳氏ら日本語世代は、日本語が乱れていくことを嘆き悲しみ、「美しく正しい日本語を台湾に残す」ため勉強会を立ち上げたのである。1999年より、上述の会報『つつじ』は『友愛』に改称、組織名も現在の友愛会に改められた。

会報『友愛』。日本語世代の会員による日本統治時代の思い出や戦争体験など、貴重なエッセイの数々は史料としての価値も高い(筆者撮影)
会報『友愛』。日本語世代の会員による日本統治時代の思い出や戦争体験など、貴重なエッセイの数々は史料としての価値も高い(筆者撮影)

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権田 猛資GONDA Takeshi経歴・執筆一覧を見る

台湾国立政治大學大学院修士課程。1990年生まれ。主に戦後の日台関係史を研究。また、バシー海峡戦没者慰霊祭や廣枝音右衛門氏慰霊祭の事務局長を務める。

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