台湾の「日本式建築」に魅せられて:日本統治時代・レトロ建築の「伝道師」渡邉義孝さん
文化 暮らし- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
日本統治時代の建築物への情熱
2011年、日本で「東アジア日式住宅研究会」が結成された。同会は建築士や研究機関、市民団体らにより設立され、台湾、韓国、中国という、かつて日本の植民地となったり、統治を経験したりした地に残る日本式建築物(以下、日式)の研究を目的とする団体だ。その研究方法は、現地との交流を通して建築物の保存や再生への理解を深めるものである。同会が結成されたその年、同会の一員として渡邉義孝さんはフィールドワークで初めて台湾を訪れた。台湾建築への知識はあまりなかったという渡邉さんだが、現地を訪れるやいなや日本統治時代の建築物に一目ぼれしたそうだ。その後、約10年の間に渡邉さんは台湾を訪れること18回、スケッチや撮影、録音などを通して台湾全土の日式建築物とその文化的背景を記録した。渡邉さんが訪れたのは観光地となった建築物だけでなく、誰も知らないような小さな村も多く含まれている。記録の中で、渡邉さんは住人が語る美しくまた悲しい思い出にも耳を傾けていった。渡邉さんが旅を通して出会った人と建築物は全てスケッチブックの中に描き出されていったのだ。
そして2019年、渡邉さんの台湾調査は書籍『台湾日式建築紀行』として台湾の出版社から刊行された。同書では60カ所以上の日本統治時代の建築物が、渡邉さんによるスケッチやエッセイと共に紹介されている。『台湾日式建築紀行』は世界最大の本の祭典「台北国際ブックフェア」に出品され、テレビでも特集が組まれるほど注目されたのだ。渡邉さんの目に日本統治時代の建築物は「日本の近代建築の様相を持つと同時に異国情緒にあふれた建物」と映っているという。
日本統治時代の建築物が「懐かしさ」と「異国情緒」を併せ持つのには理由がある。施工の際に、建築家はやはり台湾と日本の風土気候の違いを意識した。そしてそこに当時のトレンドであった西洋建築の要素を加え、「台湾の日式建築」という独自のスタイルが確立したのだ。つまり台湾における日本統治時代の建築物は、日本建築をベースに改造を加え、進化、もしくは全く新しいものに生まれ変わったものなのだ。
渡邉さんは著書の中で「当時の(台湾における)西洋式建築と和風住宅は、形式上は日本のものと類似している。だが、窓が日本では珍しい出窓になっている点が、台湾の特色のひとつだと言える」と述べている。その出窓の下には「氣窗(チーチュアン)」と呼ばれる通気口ががあり、風が屋内に入るように設計されている。そして通気口から入った空気は屋内を循環し出窓から排出され、室内を涼しく保つのである。渡邉さんによると、この日本ではほとんど見られない建築スタイルは、高温多湿な台湾ならではの変化のひとつであるそうだ。渡邉さんはこのように、日本と台湾における建築の違いを細かな点にまで注目して描き出している。
台湾では建築分野の門外漢でさえ日式建築の専門用語、たとえば屋根を支える構造のひとつ「洋小屋組み」、一般的に三角屋根とも呼ばれる「切妻造」やその構造の一部である「破風(はふ)」などを知っているほど日式建築への注目が高まっている。その中でも渡邉さんのスケッチは異彩を放つ。人がそれぞれ個性を持つように、同じ建築のスケッチでも渡邉さんの画風は一種独特で、一目見ただけで彼が描いたものだと分かるくらいだ。台湾の渡邉さんのファンからは、この日式建築ブームの勢いに乗って続編の出版を望む声が多数寄せられている。
台湾との深い関わり
渡邉さんの調査は、台湾の建築関係者や建物の管理者である自治体、そして市民と交流を深めながら行われている。数年前、渡邉さんと台湾のネットユーザーが協力してGoogleマップ上に『日式建築マップ』を作成した。渡邉さんらが作った地図には台湾全土から集めた約2000カ所のレトロ建築情報が掲載されたそうだ。だが、現在、この地図は非公開となっている。残念なことに一部の建築会社がこの地図を用いて都市開発の名の下、日本統治時代から残る建物を取り壊してビル建設を狙っていることが分かったのだ。日式建築物の保護のため、地図の閲覧は申請制が取られることになった。
渡邉さんが台湾で行った調査には、一般の家屋だけでなく日本統治時代に結核病患者の療養のために建てられた台北松山療養所の所長宿舎や、第二次大戦中に旧日本軍が宜蘭に作った掩体壕(えんたいごう)も含まれる。宜蘭の掩体壕とは、航空機を空襲から守るための格納庫のことだ。
松山療養所所長宿舎の修復を担当した建築家の蔡孟哲さんは「渡邉さんの建築に対する情熱と誠実な態度は、私が知る限りどんな台湾人建築士も及ばないでしょう。台湾には建築物の修復技術はありますが、それでもやはり渡邉さんから多くを学びました。例えば、あるとき渡邉さんは修復現場で建物の梁構造に日本語で何か書かれていることを発見しました。私たちは全く気付いていなかったのですが、それは約100年前に当時の職人たちが建築の際に梁に記した合い印だったのです」と指摘している。
また、日本統治時代の古民家をリノベーションしたカフェレストラン「青田七六(Qitian76)」を運営する作家の水瓶子さんはこう話す。
「台湾では日式建築が政府の資産として管理されているケースが多いのですが、台湾の建築家はその建築物に関して、政府へ意見を出すのをためらいがちです。しかし渡邉さんはそのあたりを変に気にすることなく、政府に対して時に厳しい意見でさえ伝えることもあるのですよ」
渡邉さんのこうした行動は、台湾の建築関係者に深い感銘を与えたという。台北市に勤めるある公務員はこう振り返る。「渡邉さんが台湾での調査を終え帰国した後、滞在中に描いたスケッチと旅行記を小冊子にして調査の中で出会った人達に送ってくれたんです。その冊子が届いたとき、びっくりしましたがうれしかったですね」
このように調査の中で多くの台湾人に強い印象を与えた渡邉さんだが、彼自身は台湾における文化財保存の取り組みには、日本も見習うべき点があると考えているそうだ。そして渡邉さん個人としても台湾での旅から多くを学んでいるという。
渡邉さんの日本での仕事内容は新家屋の設計から歴史的建造物を含む古い建物の修復まで幅広い。しかし、現代風の大型建築にはあまり興味がないそうだ。また建築の知識も、多くの建築士が大学などで学ぶのに対し、渡邉さんは現場で身に付けていった。特に若い頃に携わった地下鉄、ダム、下水道の敷設工事などが強く印象に残っているという。
渡邉さんは当時を振り返りながらこう話す。「手を動かして建物を作るのが好きなんです。仕事をしているうちに『自分で設計もできたらもっと面白いかもしれない』と思うようになり、建築士になりたいという思いが芽生えましたね」
師からの教え
渡邉さんの建築家人生にまず大きな影響を与えたのは、彼の上司にして師、そして建築家であり文筆家でもある鈴木喜一さんとの出会いだ。鈴木さんから受けた影響は、単なる技巧や実務経験にとどまらず、渡邉さんの建築理念にまで及んだ。
「鈴木先生は私たちに建築現場を隅から隅まで観察するようにおっしゃいました。先生が言いたかったのは、建築の入門とは素直な心で大工、左官、れんが職人から見て学ぶことだということです。そのほか先生は可能な限り天然建材を用いて、シンプルな設計を行うことこそが人を飽きさせない建築であるという信条を持っていました。当時、私たちがモットーとしていたのは『5年後10年後に完成したときよりさらに美しくなり、街と調和していく建物を作る』です。また私が古い家屋を調査した際、先生から『取り壊すのではなく、再生した方がいい』というアドバイスを受けました。そうすることで、その家に住んでいた家族の記憶を引き継ぐことができるというのです。再生という決定を家主に伝えると、とても喜んでくれました」
旅を愛した鈴木喜一さんは、旅行中に異文化の洗礼を受け、観察することが建築家としての観察眼を養い、視野を広げることになると考えていたという。渡邉さんは当時をこう振り返る。
「鈴木先生は、『建築家になりたければ旅に出よ!』とおっしゃっていました。私は現場のたたき上げです。鈴木先生の事務所に入って2年は給料が出ませんでした。昔ながらの見習い修行のようなものです。その一方で先生からは1年のうち3カ月は海外旅行に行くことを勧められました。旅行の費用は事務所が負担してくれます。ですが、ひとつ条件があって、それが毎日スケッチを1枚と旅行エッセイを書くことだったのです」
スケッチは写真を撮るのとは異なり、時間も労力も要するものだ。スケッチのポイントを渡邉さんはこう語る。
「建築物を描くとき、まず把握しなければいけないのが屋根の形、そして壁の色と窓の数など細部です。なぜこの窓は上下に開閉するのか、なぜ日本のように左右にスライドする窓ではないのか……このように疑問点を見つけ、答えを探すことで、私はその建物のことを理解していきます。もし建物と対話する時間が2時間あったなら、誰だってその建物と『友人』になることができますよ。鈴木先生が私に与えた任務も『勉強』ではなく『いかに建築物と対話するか』、この一点でした」
日本での活動
広島県東部に位置する尾道市。近年、渡邉さんはここを主な仕事の場としている。戦前は広島市に並ぶ商都であった尾道市も、第二次大戦後、人口流出と高齢化に抗えずにいる。加えて旧市街地の山肌を縫うように蛇行する狭い道路は車が通れず、アクセスの悪さから空き家が増加しているのだ。
2008年、故郷が廃屋だらけになっていくことに危機感を覚えた尾道出身の豊田雅子さんが「NPO法人尾道空き家再生プロジェクト」を立ち上げた。同法人にはさまざまな業界からメンバーが集結し、一時は廃虚寸前の危機に瀕した街の状況に変化の兆しが見え始めたのだ。このプロジェクトの影の立役者のひとりが、理事を務める渡邉さんなのである。
「(旧市街地の建物が)国の有形文化財に指定されてから、クラウドファンディングや市からの補助、多くのボランティアの協力を得て空き家の再建を進めました。さらに尾道で『空き家バンク』業も開始しました。この事業では不動産市場に出ていない空き家を調査し、居住希望の方とのマッチングを行っています。またNPO法人尾道空き家再生プロジェクトでは文化財の申請、図面の作成、(建物が)建築基準法や消防法に適合しているかどうかなどの確認も行っています。とても面白い仕事です」
尾道では具体的にどのように空き家の再生が行われているのだろうか。例をひとつ見てみたい。渡邉さんらが修復することになったある家屋は、建物自体が大きく、また現場に行くために370段の階段を上る必要があった。修復作業では、多くのボランティアを動員し、修復材の運搬は車や機械を使わず人の手で行われたそうだ。修復については、さまざまな面からの検討が行われた。渡邉さんは、修復に用いる材料や構造の検討だけでなく、このほぼ山のような場所に2階建ての家屋を建てるために、過去にどんな建材や工法が用いられたのかの調査も行ったのだ。その結果、修復には木造だった構造に鉄骨を入れて強化し、屋根の一部には当時から使われていた瓦をそのまま利用することが決定した。こうして廃虚と化していた家屋は、在りし日の姿を取り戻したのである。
渡邉さんは空き家再生の美学についてこう話す。
「建築というのは、その土地の建材と昔から伝わる伝統技術が使われているものです。これこそ私の美学とインスピレーションの源なんです。建築家としてお客様の希望をかなえることは必須ですが、それでも私は『昔ながらの材料を使ってはどうでしょうか?』と提案することがあります。尾道の空き家再生では、修復に明治時代の瓦を使います。そうすることでコストはかかるのですが、お客様もその価値と意味を理解してくれています」
そして、渡邉さんはこうも語った。
「尾道市は日本の地方創生の成功例の1つです。市民の力で廃虚群となっていた街がよみがえったと言えます。そして今、さらに多くの人達が尾道を愛するようになりました。2009年から始めた空き家バンクでは登録されている1000棟以上の空き家のうち約100棟が修復を完了しています。そして尾道に200人以上が移住したのです。さらに現在、約1000人が(移住の)申請中だといいます。日本において民間の力で移住の潮流ができた例は決して多くありません。私が講師を務める尾道市立大学では、『建築と都市計画』という授業で学生とフィールドワークに出るのですが、(学生から)NPOへの参加希望者がどんどん増えています。私はこういった市民の行動が街の景色を変えていくのだと思います。そのような変化に携われることはとても喜ばしいことです」
だが、古い建物の中には、残念なことに修復されることなく解体されるものもある。渡邉さんほどのキャリアとなると、そんなケースを目にすることも少なくなかった。
「2011年の東日本大震災、2016年熊本地震の後、私は被災地で残った土蔵の調査記録を始めました。宝石のように輝く土はまさに日本建築工芸の極みです。土蔵の建設費と建設に要する時間は、ときに住宅本体を越えることもあります。しかし今多くの蔵が、修復されることのないまま最終的に解体されるという状況にあります。私個人にはその蔵たちを守る力はありません、そこで蔵をスケッチして記録することで何とか後世にその姿を伝えたいと思っています」
活動を続けるうちに、こんなうれしいこともあったそうだ。
「『渡邉さん、あなたの蔵への思いを知ってうちの蔵は取り壊さないことにしましたよ!修復をお願いできませんか?』と言ってくれる人もいます。このような言葉を聞くとほっとしますね」
精力的に日台を往来し続ける渡邉さんの力の源は、ひとえに建築への無限の情熱だろう。彼の建築の旅にはゴールはない。この新型コロナウイルスの流行が落ち着いたら渡邉さんはきっと台湾行きの航空券を手に再び旅に出るに違いない。今後も台湾――麗しの島「フォルモサ」で、渡邉さんの建築の大冒険が展開されるだろう。
バナー写真=台湾新竹県警察局横山分署内湾交番のスケッチを行う渡邉義孝さん(Yunkang Hsu氏撮影)