台湾を変えた日本人シリーズ:屏東平原を潤した日本人技師 鳥居信平

歴史

台湾の南部にある屏東県と日本は深いつながりを持っている。日本統治時代は多くの日本人が生活した。この時代、屏東の姿を大きく変えた人物がいた。サトウキビの農地開墾のため、台湾製糖に招かれ、屏東の枯れた大地を、伏流水を利用した地下ダムによって潤した鳥居信平だ。

水利技師として台湾へ

台湾製糖は、サトウキビ増産のために土壌の改良やかんがい、排水システムの構築ができる水利技師を必要としていた。当時専務だった山本悌二郎は、親交のあった東京帝大農科大の教授である上野英三郎博士に相談を持ちかけ、教え子であった鳥居信平を推薦されたのである。

鳥居信平(平野久美子氏提供)
鳥居信平(平野久美子氏提供)

鳥居は1883(明治16)年1月4日、静岡県周智郡上山梨村(現在の袋井市)の農家の三男として生まれた。県立静岡中学校を卒業すると、金沢の第四高等学校に入学、卒業後は東京帝大農科大学に入学し、ここで上野教授から農業土木について学んだ。卒業後は農務省農務局に就職、清国の山西省で農林学堂の教授を務め、帰国後は徳島県の技師となっていた。上野博士から話が持ち込まれたのは結婚して間もない時で、鳥居は周囲の反対を振り切って新妻のまさと徳島の技術者を伴って1914(大正3)年に渡台した。31歳の時である。

台湾製糖農事部水利課長に迎えられた鳥居の任務は、屏東平原の東端の荒れ地約2200ヘクタールを開拓して、サトウキビ農場にすることであった。現地を案内した社員が「乾期は、地下を2メートル掘っても一滴の水すら出てきません。3月になると干ばつが襲い、飲み水にも苦労します。ところが5月から雨期が始まると、今度は洪水が田畑を襲い水に漬かってしまいます」と説明した。

鳥居はしゃがみ込むと、土壌を調べた。ため息をつきながら「これほどの荒蕪地(こうぶち)は、内地でも清国でも見たことがない…」とつぶやいた。コンクリート状になった地層に、大小無数の石がぎっしりと埋まっていたからである。鳥居は自分の知識や経験で対応できるか、不安な気持ちを抱えながら現場を後にした。

次ページ: 命がけの過酷な調査

この記事につけられたキーワード

台湾 ダム 後藤新平 日本統治時代 屏東

このシリーズの他の記事