台湾を変えた日本人シリーズ:屏東平原を潤した日本人技師 鳥居信平

歴史

古川 勝三 【Profile】

台湾の南部にある屏東県と日本は深いつながりを持っている。日本統治時代は多くの日本人が生活した。この時代、屏東の姿を大きく変えた人物がいた。サトウキビの農地開墾のため、台湾製糖に招かれ、屏東の枯れた大地を、伏流水を利用した地下ダムによって潤した鳥居信平だ。

製糖で発展した屏東

台湾南西部の港湾都市・高雄市の南東に、屏風(びょうぶ)のように横たわる半屏山がある。この山の東に屏東市が広がる。かつてこの街は「阿猴」といわれ、鄭成功が台湾を支配していた時代までさかのぼる古い歴史を持っている。この屏東平原の農業を大きく変え、「農業県」と呼ばれる今日の姿に作り変えたのが、日本統治時代、農業改革のために、台湾総督府から現地に派遣された日本人技師、鳥居信平だった。

屏東県の現在の人口は約80万人。都市部を離れると、田園風景が広がる街である。日本統治時代の大正期には「台湾製糖株式会社」の本社と「陸軍第八飛行連隊」の駐屯地があったため、多くの日本人が住み着き、にぎわっていた。サトウキビを運搬した台湾製糖時代に走っていた軽便鉄道のレールが現在でもあちこちで残っており、かつての繁栄をしのぶことができる。

台湾を領有した頃の日本は、砂糖消費量の98%を輸入に頼っていた。第4代台湾総督の児玉源太郎と民政長官の後藤新平は、台湾政策の中心を産業振興に置き、その一環として糖業奨励を推進することにして、台湾に近代式の製糖会社を設立することを目指した。

後藤から多額の補助金を出すことを条件に進出の依頼を受けた三井物産は、1900(明治33)年12月に株主数95人、資本金100万円で「台湾製糖」を設立した。ところが、原材料の台湾産サトウキビの供給が追いつかなくなり、台湾製糖では総督府から払い下げてもらった屏東・林辺溪の周囲の広大な土地を開墾し、サトウキビ栽培の自社農場を造ることを考えた。

しかし、開墾予定地は小石混じりの固い土壌で、耕作可能な状態ではなかった。さらに大武山の麓には急勾配の林辺渓が流れていたが、雨期には半年で2500ミリメートルもの雨が降って田畑が水に漬かるかと思えば、乾期には一滴の雨も降らない干ばつが襲い、飲料水の入手にも苦労する土地であった。

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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