「冗談だよ!」って笑って戻ってきて : 天才・志村けんが台湾にもたらした「娯楽」以上のもの

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志村けんさんが出演していた『8時だョ! 全員集合』は、台湾人にとっても懐かしい記憶だ。当時、台湾でのテレビ放送はなかったが、海賊版ビデオとなって台湾の家庭に浸透していた。志村けんさんは台湾でも、みんなが知っている人気コメディアンだった。

日本のバラエティとの出会いは、『8時だョ! 全員集合』

志村けんさんが新型コロナウイルスに感染して入院したというニュースを聞いても、最初は、深刻には受け止めていなかった。なぜなら彼は「志村けん」だからだ。きっと無事に退院するはず。そう思って、毎日、日本のYahoo!ニュースをチェックして、志村さんが笑いながら「だいじょうぶだぁ! 驚いた?」と退院したというニュースを探した。

しかし、そんな希望ははかなく消えてしまった。志村さんの訃報は台湾でも大きく報じられた。ここ数年、樹木希林さん、八千草薫さん、野際陽子さん、緒形拳さんら日本の大物芸能人の訃報が伝えられるたび、フェイスブックやツイッターなどを通じて、多くの台湾人が追悼のコメントを寄せる。

そんな台湾ネットユーザーの反応に、日本人は「なぜ台湾人は日本の芸能人のことをこんなによく知っているのか」と驚いているようだ。筆者のような戒厳令期(1987年に解除)に生まれた世代では、日本の芸能界との最初の出会いは街のレンタルビデオ店だ。無許可の海賊版で、初期はベータマックスで、後にVHSがレンタルされるようになった。レンタル店で借りた『8時だョ! 全員集合』のテープには手書きで中国語のタイトル「八時全員大集合」と書かれていた。

私たちは娯楽に飢えていた

レンタルビデオで志村けんさんを見るようになったのは、1970年代中期~80年代前半だ。その頃、台南市街地から郊外に引っ越した我が家では、NHKの衛星放送は受信できたものの、それ以外で見られるのは地上波の3チャンネルのみだった。当時の台湾はまだ戒厳令下で、バラエティ番組は政府の検閲を通ったものしか放送できなかった。歌番組や教育要素がつまったミニドラマなど、正直に言ってつまらないものばかりだった。私たちは娯楽に飢えていた。

だから、『全員集合』が大人気になったのは自然な流れだったと言える。『全員集合』は私たちがテレビ番組に求めていたものを与えてくれたのだ。夕食後は決まって家族全員で『全員集合』を見ていたことが、私にとっては、家族団らんの大切な記憶である。

この時代に家族で日本のテレビ番組を見ることを、歴史と文化の側面から考えてみたい。私の両親のように日本教育を受けた世代、たとえ終戦時はまだ小学生であったとしても、彼らの幼少期~青春時代は日本文化から切っても切り離せないものだった。両親は幼い頃から日本の童謡を歌い、親しんだ童話は桃太郎、1958年に日本で空前のミッチー・ブームを起こした美智子皇太子妃(当時)のファッションに憧れたという。

父親は演歌の本と美空ひばりさんのレコードを持っていて、NHK紅白歌合戦で森進一さんや水前寺清子さんを見ながら、一緒になって歌っていたそうだ。一方、私のような戒厳令下で生まれた世代は抗日愛国映画を見て育ち、日本人の印象と言えばチョビひげで軍服を着て、陰険で凶暴、そして日本なまりの北京語のせりふを話すというものだった。親世代、子世代の日本観はまるで違うものだった。

世代のギャップを埋めた『全員集合』

しかし、家族で『全員集合』を見るときは、両親は青春時代に返ったかのように夢中になり、小・中学生時代の私は、番組を見ているうちに、日本人の印象が抗日映画の悪者から、面白いコントで笑いを取るコメディアンに変わっていった。

『全員集合』が私たち親子にもたらしたのは娯楽だけではなかった。親にとっては、幼少期から親しみ、心の中にしまっていた日本語がよみがえるトリガーとなり、子供にとっては当時の国民党政権よって作り出された日本のイメージが崩れるきっかけとなったのだ。番組を制作したTBSやドリフターズのメンバーは、まさか海を隔てた台湾で番組がこんなに大きな影響を与えていたなんて思いもしなかっただろう。

『全員集合』には、たびたび際どい場面が登場する。家族で見ているときに、出演者同士が板でたたき合ったり、志村さんが女性を下品な言葉でからかったりするシーンがあると、家の中には気まずい空気が流れた。両親は日本人の礼儀正しさに尊敬の念を抱いている世代なのに、「礼儀正しい」とはかけ離れた場面が流れると、両親は「日本人は『有礼無体』だから……」と、言い訳するかのように話すしかなかった。有礼無体とは台湾で日本人の国民性を表現するときに使われる言葉で「礼儀正しい面もあるが、温泉などで全裸になるなど台湾人が恥と思うことを平気ですることもある」といった意味合いである。

台湾でも、日本のお笑い番組が子供の教育によろしくないという声もあったようだ。しかし、その内容は大人も腹を抱えて笑うほど面白く、「教育のことは番組を見終わってからにしよう!」と思わせるほどだったと言える。

あの頃、私はいつも袋小路を抜けたところにある大通りのレンタルビデオ店に行っていた。会員になると、店名が入った手提げ袋をプレゼントしてくれた。そして確か会費を払うと、赤いスポーツカー型のテープ巻き取り機ももらえたと記憶している。当時、私がよく借りたのは『全員集合』、刑事ドラマの『Gメン』シリーズも外せないお気に入りだった。ビデオのコピー方法はいい加減なもので、テープに何度も上から録画して再利用をしていたようだ。前に録画したものが消去されていないので、目当ての番組の前後に時代劇や年齢制限がある映像が入っていることもあった。

抱腹絶倒のコントと新鮮な演出

『全員集合』に出演していたドリフターズの5人は、リーダーのいかりや長介さんのように、名前にひらがなが入っている人もいる。ひらがなは戦後生まれの台湾人にとって読みづらいものだった。そんなとき、私たちは彼らに台湾語の呼び名を付けたものだ。いかりやさんはコントの中で年配の男性役が多かったため、「阿公(おじいちゃん)」という愛称がつけられた。「長介おじいちゃん」は劇中でよく、ピッタリとしたももひきを履き、浴衣を着ていたように思う。余談だが、私の父は、冬場はももひきを履き、その上にグレーの裾の長いパジャマを羽織っていて、まるでいかりや長介さんのようだった。父は厳格な人間だったが、家族で日本の番組を見るときは、とても楽しそうで冗談ばかり飛ばしていた。

さて、ドリフターズの他のメンバーのイメージは、高木ブーさんと仲本工事さんが真面目キャラ、加藤茶さんはかっこよくて頭のいいキャラ、志村けんさんはユーモアがある一方アウトローで、女性にちょっかいばかり出しているというところだ。そのためか番組の中でツッコミを受けてたたかれるのは、いつも志村さんだったように思う。

番組は、オープニングから観客の笑い声と拍手でとてもにぎやかだ。コントのたびに変わるセットは素晴らしいの一言だった。コントは幼い頃から「そういうものだ」と教えられた常識を覆すものばかり。たとえばお葬式のコントでは、和尚さんがおならをしながらお経を読んだり、棺おけに入っていた志村さんが突然飛び上がって喪服姿の妻と踊り出すなんてシーンもあった。子供ながら、「とても大胆だなぁ!」と思ったものである。そして極め付きが「崩壊オチ」だ。最後にセットが崩れ落ち、出演者全員が滑りこけるシーンを見たときは、あまりの衝撃に大笑いしてしまった。

『全員集合』は子供の目から見ても本当に面白かった。番組の終わりではドリフターズの5人とゲスト出演者がエンディングテーマ『ドリフのビバノン音頭』を歌う。「ババンバ・バン・バン・バン」の歌声の合間に加藤茶さんが「風邪ひくなよ!」「風呂入れよ!」「宿題やれよ!」「歯磨けよ!」の掛け声をし、最後に全員が一歩前に出て「また来週!」で番組は締めくくられる。そのとき両親は加藤茶さんの真似をして子供に「学校でケンカすんなよ!」や「志村けんみたいにスカートめくりすんなよ!」などと付け加えたのだった。

志村けんに影響を受けた台湾3世代とバラエティ番組

『全員集合』は、台湾バラエティ番組にも影響を与えた。70年代から活躍した歌手で女優の鳳飛飛(フォン・フェイフェイ)が司会を務める『一道彩虹(1978~80年)』『飛上彩虹(1984年、97年)』などの番組は、『全員集合』のコピーだった。番組内の「少年少女合唱団」というコーナーは、『全員集合』の「少年少女合唱隊」そのもので、衣装も日本版と同様に白を基調として、手には楽譜、そして鳳飛飛がいかりや長介さんのように合唱団を指導するのだ。このコーナーで頭角を現したコメディアンからは、どこか加藤茶さんや志村けんさんの影響が感じられる。コーナーの流れや笑いのポイントは、あの海賊版ビデオを見た世代には、どこか見覚えがあるものだった。

海賊版のレンタルはもちろん違法だったが、なぜか店が取り締まられたという話は聞いたことがない。そればかりか、台湾バラエティ番組はこぞって日本の番組を模倣し、鳳飛飛の番組で人気を得たコメディアン、たとえば後に「黄金五鼠」と呼ばれる張菲(チュー・フェイ)、 倪敏然(ニー・ミンラン)ら5人が出演したバラエティ番組『黄金拍档(「ゴールデンパートナー」の意)』の制作にはTBSの協力があったくらいだ。『黄金拍档』は後に「台湾版 8時だョ! 全員集合」と呼ばれるようになる。

さて、メディアなどで「台湾の志村けん」としてよく名が挙がるのは、ユーモアがきいた芸風で親しまれたコメディアン・豬哥亮(ジュー・ガーリャン)だ。「北の張菲、南の豬哥亮」と呼ばれ、人気を二分していた。だが、実際に志村さんの影響をより強く受けていたのは豬哥亮ではなく張菲ら『黄金拍档』の出演者の方である。『黄金拍档』で倪敏然が演じた「七おじさん」と張菲による「董娘」、そして後に陽帆(ヤン・ファン)によって演じられた「陽ばあさん」には志村けんさんの影を見ることができる。

『黄金拍档』で人気を博したコメディアンたちはやはり『全員集合』のスタイルを踏襲していた。一方、豬哥亮は自身が司会を務めるディナーショーの『豬哥亮的歌廳秀』で独自のスタイルを築いていったと言える。

低俗? でも、天才!

ひとくちに「台湾でも親しまれた志村けんさん」と言っても、その出会いは様々だ。初期は海賊版レンタルビデオの『全員集合』で、次の世代はケーブルテレビで放送された『志村けんのだいじょうぶだぁ』や『志村けんのバカ殿様』、さらに若い世代になると『天才!志村どうぶつ園』だと言えるだろう。

ただ、筆者は『天才!志村どうぶつ園』などで大御所として扱われる志村さんの姿を見るのは不思議な気持ちがした。私達のような中年世代にとっての志村さんはやはり「天才コメディアン」なのだ。彼の芸風は世の中の模範になるものではなかったかもしれないが、志村さんは抜群のセンスで疲れた大人だけでなく、子供にもほっと一息つく時間を与えてくれたのだ。

志村さんのコントには「低俗すぎる」という批判もあるだろう。しかし、多くの人を大爆笑させたという事実を否定することはできないし、笑いを通して弱い立場の人間に、台湾で言えば海賊版レンタルビデオを見るような階層に、励ましと力を与えてくれた。

私達は、志村さんのコントから、人はどんなに惨めな目にあっても、笑っていられるということを学んだのだ。だから、私は志村さんの新型コロナウイルスによる訃報を聞いてもすぐには信じられなかった。志村さんは倒れても、コントの崩壊オチのときのようにすぐパッと立ち上がる……知らず知らずのうちに、そんな期待のような思いを胸に抱いていた。

志村さんなら観客が驚いているなか立ち上がって、あごを突き出し白目をむいて滑りこけ、客席に向かって「冗談だよ!」と叫ぶのではないか。そこに、いかりやさんが登場して、頭を思い切りパシーンとたたくのではないか…。だが、どんなに思いを巡らせても、あの笑いに満ちたシーンはよみがえることはないのである。

バナー写真=コイケヤのポテトチップの発売イベントに登場した志村けんさん、2016年9月15日、東京都内(時事)

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