25回忌に寄せて――歴史の申し子、テレサ・テン

社会 暮らし エンタメ 国際 歴史

平野 久美子 【Profile】

アジアの歌姫と呼ばれたテレサ・テン(鄧麗君 デン・リーチュン)が亡くなって、この5月に25周年を迎え、テレビなどでも盛んに特集番組が放送された。今もなおアジアで絶大な人気を誇っているテレサ・テンについて長年取材を続け、『テレサ・テンが見た夢: 華人歌星伝説 』という著書もあるノンフィクション作家の平野久美子氏が、知られざるテレサ・テンのファミリーヒストリーを明らかにする。

鄧麗君との出会い

テレサが日本でのキャリアを積み上げていた1970年代末、中国では鄧小平による改革解放政策が始まった。それに伴い香港や台湾からも流行歌が入ってきたが、西側の堕落した思想が国内に広まることを恐れた共産党は、1983年から精神汚染キャンペーンを展開。テレサの歌を始め、香港や台湾の歌謡曲は退廃的、ポルノチックと糾弾され、聴くことも音楽テープを持つことも禁止された。だが中国の人々はテレサ・テン=「鄧麗君」の情感に訴える甘い歌声を密かに聞き続け、その人気は全土に広がっていった。

墓参の翌日にいとこ宅を訪問したとき、大切な思い出の品だと言って1970年代製のラジカセを見せてくれた。

「これは鄧麗君が知り合いに託してわざわざ届けてくれた品物です」

精神汚染キャンペーンの最中に届いた貴重な贈り物!テレサは親族に自分の歌を聞いてほしくて、仲の良かったファンクラブの会長に西安行きを頼んだに違いない。

「カセットテープも何本か同封してあったので、職場の仲間とこっそり聴いたのです。それまで革命歌ばかりでしたから、こんなにも優しい、心を癒やしてくれる音楽があるのかと感激しました。歌詞もメロディーも別世界のものでした」

―彼女が親族だと知ったのはいつ頃ですか?
「会長さんが来たとき教えてくれたのです」
―鄧麗君との関係を聞かされて、どんなふうに思いましたか?
「やっぱりそうか、と。母の妹の嫁ぎ先は鄧家だと知っていましたし、不思議なことですが、顔に見おぼえがあるような気がしていました」

その翌年、今度は台湾から素桂さんが西安を訪れ、姉と35年ぶりの再会を果たした。台湾の国民党政府が大陸の親族を訪ねる許可を出したのは1987年。したがってそれより3年も早い訪問は、かなり異例の措置と思われる。写真で見る姉妹は丸顔で体型もよく似ている。祖母の守鑫さんも同じ顔立ちだから、やはりテレサは母方の血をより多く受け継いでいる。

再会の様子は「二人は何度も抱き合い涙を流していましたが、感情を抑えた実に静かな対面でした」というものだったという。

姉妹の個性もあるだろうが、おそらく党の関係者や地元役人が付き添っていたのだろうから、賢明な2人は感情の爆発や余計な会話を避けたのではないだろうか。母が伯母との再会を果たすと、こんどはテレサが伯母一家を香港に招待し、祖国の親族と対面した。戦火と体制の違いによって引き裂かれた趙家の三姉妹は、テレサの名声と歌声によって、再びつながったのだ。

「これがその時の記念写真です」

日本のファンがおそらく見たことのない、会心の笑みを浮かべるテレサ。目の前に並べられた写真には、中華人民共和国と中華民国に分断された現代史が如実に表れている。セピア色に変色し始めた写真を通して、私は知られざるテレサのファミリーストーリーを垣間見たような気分になった。

次ページ: 「私はチャイニーズです」

この記事につけられたキーワード

中国 台湾 テレサ・テン 国民党

平野 久美子HIRANO Kumiko経歴・執筆一覧を見る

ノンフィクション作家。出版社勤務を経て文筆活動開始。アジアンティー愛好家。2000年、『淡淡有情』で小学館ノンフィクション大賞受賞。アジア各国から題材を選ぶと共に、台湾の日本統治時代についても関心が高い。著書に『テレサ・テンが見た夢 華人歌星伝説』(筑摩書房)、『トオサンの桜・散りゆく台湾の中の日本』(小学館)、『水の奇跡を呼んだ男』(産経新聞出版、農業農村工学会著作賞)、『牡丹社事件・マブイの行方』(集広舎)など。
website: http://www.hilanokumiko.jp/

このシリーズの他の記事