25回忌に寄せて――歴史の申し子、テレサ・テン

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平野 久美子 【Profile】

アジアの歌姫と呼ばれたテレサ・テン(鄧麗君 デン・リーチュン)が亡くなって、この5月に25周年を迎え、テレビなどでも盛んに特集番組が放送された。今もなおアジアで絶大な人気を誇っているテレサ・テンについて長年取材を続け、『テレサ・テンが見た夢: 華人歌星伝説 』という著書もあるノンフィクション作家の平野久美子氏が、知られざるテレサ・テンのファミリーヒストリーを明らかにする。

祖父母の足跡

親族によれば、テレサの祖母にあたる張守鑫さん(1904~1974)は、日露戦争が勃発した年に山東省東平県で生まれた。纏足(てんそく)をしていたというから、それなりの家庭で育ったのだろう。15、6歳の頃、将来を嘱望されていた同郷の青年と所帯を持ち、後に3人の娘に恵まれた。

テレサの祖父の趙守業さん(1900~1943)は、北京で義和団事件が起こった1900年生まれ。幼少期からとても利発で、数えで11歳のときに清朝政府最後の給費生に選抜され、英国に留学をしたほどだ。当初は2年間の留学予定だったが、1911年に辛亥革命が起こったため、1年足らずで帰国を余儀なくされた。

しかし、そのとき習い覚えた英語を生かして、後に山東省の港にある税関事務所で働き、電信業務に携わっていたという。守業さんはやがて現在の黒竜江省に移りハルビン電信局局長に昇進した。しかし1932年に満州国が建国され日本軍が進駐してくると、守業さんは局長の地位を退き、妻と3人の娘を連れて河南省の開封市に移る。

当時のハルビン大通り(筆者提供)
当時のハルビン大通り(筆者提供)

「祖父は1943年に開封市で病死しました。祖母はまだ39歳だったので、それは生活に苦労しました」

テレサの長兄、鄧長安さんがこう話したことを思い出す。

夫の死後、守鑫さんは、12歳の次女と9歳の三女を連れて、長女の嫁ぎ先である西安に移り住んだ。当時の西安はまだ日本軍の支配下にはなく、ごくたまに空襲の日本軍機が姿を現す程度だった。母と娘たちは国民党の関係者が住む集落に身を寄せた。

彼らが仮住まいをしていたという村を2018年に訪れたが、そこは山裾に広がるコミュニティーだった。通りを歩いているとあちこちから視線を向けられる。よそ者を警戒する閉鎖的な生活がうかがわれ、都市部の驚異的な経済発展など、みじんも感じられぬ、忘れ去られたような村だった。

長女に次いで、やがて次女の素桂さん(1927~2004)も結婚。相手は国民党軍兵士の鄧枢さん(1915~1990)だ。河北省大名県で生まれた彼は、一人っ子だったうえに父母を早くに亡くし、父方の親族の家に預けられて幼少期を送った。軍隊の幼年学校を卒業後軍人になる。

1931年に起きた柳条湖事件から勃発した日中間の戦闘が激しくなると、鄧枢さんは山東省、遼寧省で参戦、兵站を担当していたようだ。1945年に日本が敗戦すると、入れ替わりに国民党軍と共産党軍との戦いが本格化する。1949年、毛沢東が率いる共産党軍が勝利を収め中華人民共和国が成立。国民党軍やその家族と関係者、共産党政権を嫌う実業家や市民など数百万の難民が、香港や台湾、東南アジア各国、米国などへ逃れていった。大混乱の中を、幼な子2人を連れて逃げ惑った素桂さんの苦労はいかばかりだったろう。鄧一家も1949年に汕頭から船で台湾へ渡ったが、素桂さんは、これが母親との生き別れになるとは思いもしなかった。

鄧一家は北部の基隆港から台湾に上陸、台北の収容施設を経て、桃園、宜蘭、羅東、雲林、台東、屏東、台北など各地の眷村(軍人家族らの居住地)を渡り歩く。鄧枢さんは生活のために軍人を辞めて商売を始めるのだが思うようにいかず、生活は困窮した。そんな中、4番目の子供として1953年に授かった女の子がテレサである。歌の好きな素桂さんは、戦前の流行歌から賛美歌までを子守歌代わりに子供たちに聞かせた。故郷を追われ、いつ戻れるか分からぬ心の傷を抱いた彼女は、万感の思いを込めて山東省の民謡などを口ずさんだことだろう。

テレサ・テンの家族(筆者提供)
テレサ・テン(前列右端)と家族(筆者提供)

一家が台湾で生活苦と闘っているころ、長女の素梅さんは中華人民共和国となった新しい中国で、三女の素亭さんは嫁ぎ先の米国で戦後の生活をスタートさせた。一方、三姉妹の母親である守鑫さんは西安市内の廟の敷地にある僧坊の一室を借り、門前で線香や祈祷紙を売って細々と暮らした。

私は何度かこの廟にも足を運んだが、裏手にある僧坊はコンクリート打ち放しの長屋で、雨水を防ぐためか屋根には塩化ビニールの波板がかぶせてあった。

「母に頼まれて祖母の世話をしによく通ったものです。僧坊はあの頃とあまり変わっていませんね」

テレサのいとこにあたる許さんは、案内をしながらしばし感慨にふける。その守鑫さんが亡くなったのは1974年。すでに台湾や香港、東南アジアでスターになった孫娘のテレサ・テンは、祖母が亡くなった同じ年に念願の日本デビューを果たしている。

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平野 久美子HIRANO Kumiko経歴・執筆一覧を見る

ノンフィクション作家。出版社勤務を経て文筆活動開始。アジアンティー愛好家。2000年、『淡淡有情』で小学館ノンフィクション大賞受賞。アジア各国から題材を選ぶと共に、台湾の日本統治時代についても関心が高い。著書に『テレサ・テンが見た夢 華人歌星伝説』(筑摩書房)、『トオサンの桜・散りゆく台湾の中の日本』(小学館)、『水の奇跡を呼んだ男』(産経新聞出版、農業農村工学会著作賞)、『牡丹社事件・マブイの行方』(集広舎)など。
website: http://www.hilanokumiko.jp/

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