日本人ではないからこそ、日本で撮れる映画がある:インド出身の映画監督 アンシュル・チョウハン

エンタメ 文化 Cinema

インド出身の映画監督、1986年生まれのアンシュル・チョウハンさんは、すでに2つの長編映画を日本で撮影した。1本目の『東京不穏詩』はベルギーのブリュッセル・インディペンデント映画祭で最優秀賞を、2本目の『コントラ』はエストニアのタリン・ブラックナイト映画祭で日本映画初の最優秀賞と最優秀音楽賞を受賞した。チョウハン監督がこれらの作品を日本で撮って、感じたこととは何か。

初めての長編映画『東京不穏詩』を撮るまで

実はアンシュル・チョウハン監督は、20歳まで映画を最後まで通して観たことがなかった。軍人である父親がとても厳しく、「そんなことより勉強をしろ」と言われていたからだ。そうした家庭環境の中、チョウハンさんは陸軍士官学校に進学した。エリート校であり、そこで学べるのは地域でほんの1人か2人。親戚一同が誇りに思う学校だという。

しかし軍人の道に進むことなく、チョウハン監督は一般の大学に進学し地理学を学んだ。そして在学中にアニメに興味を持ったことで、卒業後に3Dアニメーターとなった。インド国内で数年働いたのち海外に就職先を求め、採用された中から日本の会社を選んだ。日本のアニメ『NARUTO -ナルト-』などが好きで、大学で日本の歴史についても学び興味を持っていたからだ。

東日本大震災の直後で周りからは日本行きを反対されたが、チョウハンさんは2011年9月に来日した。その初日に、インドではめったに起こらない地震に遭遇し、怖い思いもした。日本のCG制作会社での仕事は順調だったが、映画を撮ってみたいという思いがあった。そこで「もう日本へは戻らない」という気持ちで一旦、インドに帰って、たった一人で長編映画を撮り始めた。ところがハードディスクの故障でせっかく撮った最初の映画を失ってしまう。失意の中、再び日本に戻り、改めて長編映画の制作に取り掛かった。それが『東京不穏詩』だ。

「インド人の監督が撮った」という先入観

女優になろうと東京に出てくるが、バーで売春している『東京不穏詩』の主人公・ジュン。同じバーで働く恋人に裏切られ、顔に深い傷を負ったことで、彼女は実家のある長野に帰る。しかし、そこになぜか母の姿はなく、折り合いの悪い父と2人で暮らすことになる。旧友と再会し笑顔を取り戻してもなお、ジュンの周囲はタイトル通り不穏な空気に満ち、やがてその心は爆発する。

『東京不穏詩』のワンシーン ©2018 KOWATANDA FILMS. ALL RIGHTS RESERVED
『東京不穏詩』のワンシーン ©2018 KOWATANDA FILMS. ALL RIGHTS RESERVED

「この映画の中で起きていることは、日本だけでなく世界のどこでも起きること。だから、『これが日本の社会だ』ということではなく、私が日本にいて日本で撮ったから日本が舞台になっているだけです。この作品には、そのとき自分が持っていたアイデアをすべてぶち込んでいる。学校などで学んだことはないので、この1作目を通して映画作りを学んだと思っています」

しかし劇場で公開されると、「インド人の監督が撮ったこの映画で描かれる日本は、どれくらい現実の日本社会と近いのか」ということばかり注目されたという。

「国籍が日本ではない、ということから先入観を持って見られてしまう。また、女性が暴力を受ける場面ばかりが注目され、インド人監督に映る日本は『こういうことか』と思われた。リアリスティックに描くほど、『日本社会と違う』と言われてしまうことがある。是枝裕和監督の映画『万引き家族』もそうでした。ドキュメンタリー映画であれば、『事実と違う』という話もできるが、フィクションに対してはそういう話をすること自体が違う。例えばゾンビ映画に対して、『そんなゾンビは日本にはいない』という人は誰もいません」

一方、それとは違う意味で「日本映画っぽくない」という評価もあったという。

「現代の典型的な日本映画は、俳優の演技をしている感が強く、私にはオーバーリアクションに見えます。しかし、そんなにオーバーリアクションな日本人を、私は見たことがありません。私は自分の映画の撮影中、俳優のそうした演技をとても気にして、よりリアルな演技を目指します。もし私が多くの日本映画と同じ作り方をすれば、『典型的な日本映画』と見なされるかもしれません」

日本の若い人は、戦争に興味さえ持っていない

2作目の『コントラ』は、第二次世界大戦で従軍したおじいさんが亡くなるところから始まる。その後、町に後ろ向きにしか歩けない謎のホームレスの男が現れる。一方、亡くなった祖父の「戦事記」を読んだ孫の女子高生・ソラは、祖父が埋めたと記した大事な「何か」を探す。ホームレスの男とソラの2人が出会い、家族や親族を巻き込んで物語は静かに動き始める。タイトルは英語で「逆の」の意。逆向きに歩く男や、監督のさまざまなことに逆らおうとする気持ちから付けられている。

『コントラ』のワンシーン ©2020 KOWATANDA FILMS. ALL RIGHTS RESERVED
『コントラ』のワンシーン ©2020 KOWATANDA FILMS. ALL RIGHTS RESERVED

「私自身、祖父が亡くなった次の日に生まれました。祖父の服だけを好んで着ていたこともあり、周りから祖父の生まれ変わりではないかと言われ、自分自身も強いつながりを感じていました。その祖父も従軍し、実際にこの映画に登場するのと同じものを埋めていて、亡くなった後に見つかりました」

チョウハン監督のおじいさんは、映画に出てくるような「戦事記」は残さなかったが、ヒントはどこから得たのか。

「アメリカで絵を描いて記録を残した兵士がいたのを知り、思いつきました。『戦事記』の内容は、日本人の戦時中の日記で書籍になっているものを読んで参考にしました。実際に戦場の場面を撮る代わりに、日記で戦場を表現することでコスト削減にもなる。また映画の中で日記の文章を読むほうが、むしろ想像力豊かに観客が戦場を思い描けます」

しかしなぜ、監督は「戦争」を題材に選んだのか。

「日本の若い人は、戦争に興味さえ持っていないのではないかと感じるからです。そこで、祖父の戦争体験を女子高生がなぞることで、多くの若い人に戦争について知ってもらおうと思いました。戦争だけでなく、歴史や政治にも日本の人は興味がないと思います。欧州やインドではみんな、こうしたことについて議論ができます。日本では、政治家が若い人たちに自分たちの問題を指摘して欲しくないと考え、あえて興味を持たない方向に向かわせているのではないでしょうか」

映画に登場するおじいさんは、特攻隊の生き残りだった。

「いわゆる『カミカゼ』は、勇敢な行為であったとされることがありますが、実際の特攻隊員の日記を読むと、彼らは誰一人として死にたくなかったことが分かります。他人が外から評価するのとは違い、彼らは人間として生きることを望んでいたんです。何かを変えたいというわけではないが、そういうことを伝えたくて、自分が映画を作れる環境にあり、予算がいくらかあったので、10日間ほどの撮影でこの映画を作りました」

エストニアのタリン・ブラックナイト映画祭でグランプリを受賞し、スピーチするチョウハン監督Kowatanda Films提供
エストニアのタリン・ブラックナイト映画祭で最優秀賞を受賞し、スピーチするチョウハン監督Kowatanda Films提供

それでも日本で映画を撮る理由

ところが『コントラ』が大阪アジアン映画祭で上映され最優秀男優賞を受賞し、『東京不穏詩』が関西で上映中に新型コロナウイルス感染拡大の問題が起きた。中止となった上映の代わりに、『東京不穏詩』は5月に入って動画プラットフォーム「vimeo」でオンライン公開が始まった。

「上映が中止になったことには、とてもいらだっています。そして、映画の製作者に何のサポートもないことにも。以前から、インディペンデント映画に対して、日本では政治のサポートがありませんでした。映画製作者にとって重要なのは、作った映画をずっと保存しておくことですが、日本のアーカイブ保存の場所にはメジャーな映画しか入りません。そのため、自分たちでフィルムを守り抜かないといけない。しかしそれでは、自分がいなくなったら、映画はどこに行ってしまうか分からないのです」

「それでもなぜ、日本で映画を撮るのか」という質問にチョウハン監督はこう答えた。

「インド人が日本の政府に反抗するために日本で映画を撮っているのです。これは今、冗談のつもりで言いましたが、本気でそう思っているところもある。日本で撮りたいと思っている物語がまだありますが、2本製作してみて難しさも感じています。今、日本とインドを題材とした物語を書いているので、それがうまくいけば、他の国でも撮るかもしれない。でも今もし予算が限りなくあるなら、日本の政治に関しての映画を撮りたい。日本の政治家が本当に嫌うようなものを。日本人ではないからこそできることがあると思います」

『コントラ』撮影時のチョウハン監督Kowatanda Films提供
『コントラ』撮影時のチョウハン監督Kowatanda Films提供

取材・文:桑原 利佳、POWER NEWS編集部

バナー写真:エストニアの映画祭で『コントラ』の受賞が決まった際のチョウハン監督(右)ら(Kowatanda Films提供 撮影:Aron Urb)

映画 インド 在日外国人