台湾に愛された志村けんさん
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台湾に広がった追悼の声
コメディアンの志村けんさんが3月29日夜、新型コロナウイルスによる肺炎のため、東京都内の病院で亡くなった。享年70歳。まだまだ活躍が期待できる年齢だっただけに惜しまれる。最近でも積極的に多くの番組に出演しており、3月30日から始まったNHKの朝の連続ドラマでは日本の音楽界の重鎮役で出演する予定で、既に撮影が行われていた。21年ぶりの映画出演で、人生初の主演映画となる予定だった山田洋次監督の「キネマの神様」の撮影開始も間近に迫っていた。本当に残念なことである。
志村さんは、1970年代から80年代にかけて人気を博したバラエティ番組「8時だョ!全員集合」で、荒井注さんに代わってドリフターズの5人のメンバーの1人になって以来、ずっとお茶の間のお笑いをリードしてきた。ドリフターズでは、加藤茶さんと志村さんが特に人気があり、小学校の同級生の間では「志村けん派」と「加藤茶派」に分かれてどっちが好きだという話題でいつも盛り上がっていた。私は「志村けん派」で、彼の少しブラックで悲しさも含んだユーモアが好きだった。
正直なところ、志村けんのいないテレビというものが、あまり想像がつかない。新型コロナ感染が報じられてからたった1週間と短かったこともあり、30日は一日中、日本中が悲しみとショックに包まれた。
そして、おそらく世界中で日本の次に、あるいは、日本並みにその逝去を悲しんだのが台湾だった。
メディアがトップニュースで扱い、フェイスブックや掲示板では、志村さん死去に対するコメントで「洗版(短時間に同じ情報があふれること)」と呼ばれる現象が起きた。
蔡英文総統は30日、「志村けんさん、国境を超えて台湾人にたくさんの笑いと元気を届けてくれてありがとうございました。きっと天国でもたくさんの人を笑わせてくれることでしょう。ご冥福を心から祈ります」とツイッターに書き込んだ。このコメントは、NHKの夜7時のニュースでも取り上げられた。タレントや政治家も、相次いで、哀悼の意を示した。外国のタレントの死にこれほどの反響があるというのは、常識ではあり得ないことである。
志村けんさん、国境を超えて台湾人にたくさんの笑いと元気を届けくれてありがとうございました。きっと天国でもたくさんの人を笑わせてくれることでしょう。
— 蔡英文 Tsai Ing-wen (@iingwen) March 30, 2020
ご冥福を心から祈ります。 pic.twitter.com/8TCe9udxpC
志村けんさんは台湾人の共同記憶
どうして志村さんが台湾でそこまで愛されたのか、それには、台湾ならではという理由があった。
志村さんのお笑い番組が台湾に紹介されたのは1980年代後半だった。台湾では当時戒厳令が敷かれており(1987年に解除)、日本語の番組も放送が禁止されていた。しかし、非合法のビデオ店などで日本の作品が出回っており、志村さんの番組は一番人気だったという。さらに1992年になると、日本のテレビ番組が解禁された。ちょうど日本のバラエティ全盛期であったため、志村さんの存在は台湾社会で一気に幅広く認知されるようになった。
日本カルチャーの愛好家を指す「哈日族」という言葉の生みの親で、エッセイストの哈日杏子さんは、「台湾にケーブルテレビがない時代、ビデオで彼のお笑いをみんなで楽しんでいました。多くの台湾人にとって、志村さんはとても重要な共同記憶なのです」と語る。
志村さんをきっかけに、日本のカルチャーに興味を持って、哈日族になっていった人がその時代は非常に多かった。
哈日杏子さんは「彼はいつも表情が豊かで、元気はつらつ。際どい内容の笑いも含んでいるのだけれど、憎めないキャラクターで許してしまう感じでした」と振り返る。
特に、日本文化の開放時期に制作された番組「志村けんのだいじょうぶだぁ」(1987年―1993年)は、台湾では「志村大爆笑」のタイトルで放送されて、大人気になった。名物コーナーの「怪叔叔」(変なおじさん)が、台湾では志村さんの愛称として定着した。
台湾のテレビのお笑い芸人も、志村けんさんのコントを真似ながら、芸を磨いていった。戒厳令下でお堅い笑いしかできなかった台湾の芸能界は、志村さんの自由奔放な笑いに刺激を受けた。志村さんを尊敬しているという芸人たちからも、その死を悲しむコメントが続々とSNS上で語られた。
知り合いの台湾人に「志村けんさんはどんなイメージか」と質問したら「台湾でいう猪哥亮のような存在」と言う人もいた。猪哥亮(ジュー・ガーリャン)は、台湾で一番人気のコメディアンで、奇抜な髪型や型破りな服装、ギリギリの際どいユーモアで人気を博した人物だった。志村けんさんも、それまでは仲良し家族的なイメージであったドリフターズに後から加わり、やんちゃな末っ子として、際どい笑いで仲間を困らせながら笑わせる役割を演じていたという点で、この2人は確かに共通点がある。
少し違うのは、猪哥亮は映画俳優としても大活躍していたが、志村けんさんは「自分はコメディアンだから」という信念のもと、多くの映画出演を断り続けていた。しかし、1999年に高倉健さんが主演した「鉄道員(ぽっぽや)」では、志村さんは、臨時雇いの炭坑夫の役柄を演じ、短いシーンだったが、演技力は圧倒的に光っていたことが私の印象にも強く残っている。
金城武さんと台湾各地を訪れた印象深いCM
台湾メディアによれば、志村さんが最後に台湾を訪れたのは「志村どうぶつ園」の撮影のため、2018年に台北を訪れた時だったという。志村さんは台湾を好きになり、合計10回以上訪問していたと言われる。
特にお気に入りは台北の林森北路にある足裏マッサージ店「豪門世家理容名店」だったようだ。私も何度か行ったことがあるが、入り口に大きな志村さんの写真が飾られている。「志村けんのだいじょうぶだぁ」という番組で、タレントの上島竜平さんと一緒に訪れて、足裏マッサージの痛さに悶絶しながらもお店を気に入ってその後も何度も通っていたという。
志村さんと台湾をより強く結び付けたであろう印象に残るCMがある。日本アジア航空(2007年に日本航空に統合)が台湾観光誘致を狙い、志村さんが日台ハーフで人気俳優の金城武さんと一緒に台湾の各地を巡るシリーズ企画だった。2002年頃に日台両方で流れ、どちらでも評判になった。
志村さんは金城さんがこぐ自転車に乗って、淡水の街の裏通りを走り抜け、淡水河を見ながら胡椒餅を食べた。東海岸では、台湾名産の果物である釈迦頭(日本名はバンレイシ)を地元のお婆さんから勧められておいしそうに頬張っていた。
志村さんがCMに起用されたのは、もともと台湾での知名度が高かったからにほからならない。売り出し中のイケメン俳優であった金城武さんとの組み合わせは絶妙コンビであり、コメディアンの顔とは違う、志村さんの自然な表情が記憶に残るCMだった。
怒りや悲しみの表明相次ぐ
蔡英文総統の哀悼ツイッターに続くように、台湾の立法委員である林静儀はフェイスブックで「志村けんさんの死去は本当に悲しい。世界中でこの病気で苦しみを受けており、怒りを覚える。本当にWHOはやるべきことをやっているの?」と怒りをあらわにした。台湾ではWHO(国際保健機関)の評判は非常に悪いからだ。
立法委員の鄭運鵬も「子供のころから自分のアイドルで、ご冥福を祈りたい」と述べ、立法委員の陳柏惟も「自分にとってテレビで最も見ていたのは志村けん、周星馳(香港の映画スター)、豬哥亮の3人だった」と述べている。
台湾においては、日本の芸能人や俳優の中に、日本以上に愛されている人がいる。例えば、酒井法子さんや飯島愛さんなどがそうで、彼女らのニュースも台湾では高く注目された。ただ、志村けんさんの場合は、幅広い世代から注目されたタレントであり、新型コロナウイルスが原因となった死去ということもあって、台湾で極めて高い関心を集める結果となった。
日本でもそれは同様で、小池百合子都知事は「志村さんといえば、本当にエンターテイナーとして、みんなに楽しみと笑いを届けてくださったと感謝したい。最後に、悲しみとコロナウイルスの危険性について、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださった」とコメントした。志村さんの新型コロナによる死去は強いショックを若者に与え、これまで感染予防に対して積極的とは言えなかった意識を変えるきっかけになっている。
バナー写真=三陸鉄道開業30周年記念企画展のオープン記念イベントに登場した志村けんさん、2014年6月3日、東京都港区(時事)