台湾を変えた日本人シリーズ:高雄港の開発に尽力した浅野総一郎

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古川 勝三 【Profile】

国際的港湾・高雄の発展に寄与した日本人がいた。「浅野セメント」で知られる浅野財閥の創業者、浅野総一郎だ。難工事を成し遂げ、高雄港の礎を築いた浅野総一郎の功績は、その巨大さの割に今日の日本や台湾において十分に知られていない。

日本の臨海工業地帯開発の父と呼ばれる

ロシア革命が起きた大正6(1917)年になると、打狗山の良質な石灰岩を原料にする「浅野セメント打狗工場」を新設し、縦貫鉄道と打狗港を利用して、インフラ整備が加速されつつあった台湾全土にセメントを供給し続けた。その結果、やがて台湾におけるセメントの80%を賄うまでになり、台湾の近代化と打狗港の発展にも大きく貢献した。大正9(1920)年9月に「台湾州制」律令第三号により、行政区の廃庁置州が行われ、これまでの12庁から台北州、新竹州、台中州、台南州、高雄州、台東庁、花蓮港庁の5州2庁に変更された。この時、地名も変更され打狗は高雄になった。以後、今日まで都市名は高雄のままである。

1939年、浅野セメント高雄工場(筆者提供)
1939年、浅野セメント高雄工場(筆者提供)

その後も浅野は驚くべき速さで次々と会社を立ち上げてゆく。浅野造船所、秩父セメント、旭コンクリート工業、浅野スレート販売、浅野ブロック製造、日本ヒューム管など、銀行以外の会社はすべて設立したと言われるほどであった。大正9年には浅野総合中学校も設立している。

昭和3年に鶴見川崎間に完成した「浅野埋立」には、浅野セメント、日本鋼管、浅野製鉄所、旭硝子、日清製粉などが次々と進出し、京浜臨海工業地帯の中核となり、浅野は「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」と言われるようになる。

日本の発展と自らの夢の実現に生きた浅野は、ドイツに出張中に斃れ、帰国後に食道がんと肺炎によって昭和5(1930)年11月9日、82歳の生涯を閉じた。セメント工業を足掛かりに事業家の道に進み、欧米の近代的な港湾設備に触発されて取り組んだ埋め立て事業を成功させ、日本内地では「京浜工業地帯」を生み、台湾では「高雄港の開発に尽力した日本人」として、大きな足跡を刻んだ。高雄港は総督府による第二期工事によって大型船を横付けできる近代的な港湾に進化し、今日まで台湾を代表する国際貿易港としての地位を不動のものにしている。その基礎を造った浅野のことを知る日本人や台湾人は残念ながら決して多くはない。

バナー写真=「九転十起(きゅうてんじゅうき)の像」、2013年1月23日、富山県氷見市(アフロ)

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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