台湾を変えた日本人シリーズ:高雄港の開発に尽力した浅野総一郎

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古川 勝三 【Profile】

国際的港湾・高雄の発展に寄与した日本人がいた。「浅野セメント」で知られる浅野財閥の創業者、浅野総一郎だ。難工事を成し遂げ、高雄港の礎を築いた浅野総一郎の功績は、その巨大さの割に今日の日本や台湾において十分に知られていない。

港湾整備と埋め立て事業で打狗を工業都市に変える

セメント、石炭、海運等で財をなしていた浅野は、建築中だった和式の豪邸、「紫雲閣」を明治42(1909)年に完成させて家族と共に東京三田に住み始めた。しかし、ぜいたくを嫌う明治天皇の逆鱗(げきりん)に触れたため、仕方なく外国人の迎賓館として利用することにしたという逸話が残っている。この紫雲閣も戦災で焼失し残っていない。浅野御殿と言われる豪華な屋敷に住んでいても、日の出とともに起き、服装は普段着で、従者も多くを従えず一人のことが多かったので面会者は驚いたという。子宝にも恵まれ妻佐久との間に6男7女をもうけている。

紫雲閣(筆者提供)
紫雲閣(筆者提供)

日露戦争が終わって2年後の明治39(1906)年には、総督府に出していた打狗湾埋め立て工事の許可が降りた。浅野58歳の時である。総一郎は打狗湾の埋め立てと並行して打狗山の良質な石灰石を使ってセメントを製造する工場を新設することを考えていた。資金難や物資難もあって工事は難航したが大正元(1911)年に埋め立て工事が完了し、打狗港第一期工事が完了した。この工事によって小規模ながらも船舶を横付けできる港が完成した。第二期の築港工事は、新埠頭の造営と設備の近代化が実施された。この時、新埠頭は5000トン級の船が着岸できるように水深も考慮された。第二期工事は昭和12(1937)年に完成となり、同年、第三期築港工事が着手されているが、戦争のため補強工事と保全に力が注がれたため日本統治時代に完成を見ることはなかった。たが、一連の港湾整備で、高雄の農産物や工業製品が直接船積み出来るようになり、埋め立て地には家々が建って人口が増え、打狗は工業都市として大きく発展した。

1931年、埋め立て後の高雄市(筆者提供)
1931年、埋め立て後の高雄市(筆者提供)

日月潭水力発電所の完成によって、電力の安定供給が実現すると、打狗は台湾を代表する産業都市として、さらに重要な地位を担うこととなっていった。大正3(1913)年打狗港に「打狗運河」が完成すると港内の利便性が向上した。さらに第一次世界大戦が始まると、物資の輸送や戦時特需で浅野の会社が巨大な利益を上げ「浅野財閥」を形成していった。

昭和初期の高雄運河と高雄港(筆者提供)
昭和初期の高雄運河と高雄港(筆者提供)

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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