台湾を変えた日本人シリーズ:高雄港の開発に尽力した浅野総一郎

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古川 勝三 【Profile】

国際的港湾・高雄の発展に寄与した日本人がいた。「浅野セメント」で知られる浅野財閥の創業者、浅野総一郎だ。難工事を成し遂げ、高雄港の礎を築いた浅野総一郎の功績は、その巨大さの割に今日の日本や台湾において十分に知られていない。

欧米視察で港湾の必要性を痛感

特に英国や米国の近代的な港湾施設に驚嘆し、日本における港湾施設の近代化の必要性を痛感して、翌年帰国した。欧米への出発前に「台湾の打狗山(大正9年から高雄)で良質の石灰石を発見」との情報を耳にしていた浅野は、帰国後直ちに打狗山の麓に土地を購入した。将来、台湾でセメント生産を行うための先行投資であった。

翌年の明治31(1898)年には、渋沢、安田の支援で「合資会社浅野セメント」を設立し急成長を遂げるようになる。

1860年頃の打狗湾(筆者提供)
1860年頃の打狗湾(筆者提供)

日本の港湾が艀(はしけ)の利用が不可欠で利便性に欠けるとの思いから、明治41(1908)年、神奈川県庁に「鶴見・川崎地先の海面埋立」の事業許可申請を提出。この事業計画は浅野が5年間の実地調査に基づいて作り上げた画期的で壮大なものだった。埋め立て面積500万平方メートル、延長4.1kmの防波堤、運河の開削、道路・鉄道の施設、橋梁、繋船設備、航路標識なども完備した一大工業用地を建設する埋め立て地造成計画である。この埋め立て事業は実に15年もの年月がかかり昭和3(1928)年に完成し、後の人はこの埋め立て地を「浅野埋立」と呼ぶようになる。

一方、台湾では、児玉源太郎総督が後藤新平民政長官を伴って台湾に赴任しており、浅野総一郎は後藤新平に対し、南部開発の必要性を説き、後藤新平も南部開発の中心が打狗港であることを認識する。

台湾の面積は九州の85%ほどだが、海岸線の長さは3分の1程度しかない。従って、港に利用できる湾や入り江が少なく、かつて栄えた台南や鹿港も砂の堆積で港の機能を失い、北部の基隆と南部の打狗ぐらいが港といえば港といえる程度であった。打狗港は打狗山と旗後山の間から入っていくが、隆起珊瑚の岩礁が多い上に、打狗川によって運ばれてくる砂が堆積して浅く、湿地帯が広がり、入港しても横付けできる岸壁はなかった。

埋め立てが必要だが、総督府に財源はなく、民間の投資に頼らざるを得ない状況で総督府は打狗港の開発を官民一体で行うことにした。基本計画を総督府土木局が作り、資金は民間の出資で行うことになり、浅野が埋め立てを行うことにして、縦貫鉄道が台南から打狗まで開通した明治33(1900)年、総督府に打狗港の埋め立て許可願いを提出した。この時以降、浅野は後藤新平と親交を持ち続け、後藤が台湾を去った後も関東を舞台に経済の面で交流を続けた。

次ページ: 港湾整備と埋め立て事業で打狗を工業都市に変える

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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