緑地の中に残る鳥居の謎――明石元二郎と台湾

文化 歴史

片倉 佳史 【Profile】

今もなお、台湾の地に眠る明石元二郎。55年の短い生涯だったが、ロシア革命、日韓併合など歴史のターニングポイントではいつも存在していた。明石元二郎と台湾。その生涯を振り返る。

台湾の人々によって設けられた墓地

台湾の北端に位置する新北市三芝(さんし)に、現在の明石元二郎墓地がある。これは明石の遺志をくみ、台湾の人々が設けたものである。台北市の援助もあり、新北市の福音山キリスト教霊園に2000年2月26日、再建された。

墓地は、大海原を臨む山肌にある。海の先に日本があることは言うまでもあるまい。大理石造りの立派なもので、墓地跡で発見されたという当時のプレートも見られる。費用は明石元二郎の孫にあたる元紹(もとつぐ)氏が台北市から受けた賠償金や台湾人有志などから寄付で賄われた。

墓地再建の中心人物だった楊基銓・劉秀華夫妻に生前、話をうかがった。改葬の頃は雨続きだったが、当日だけは晴れ上がったと劉秀華さんは語り、「私がお参りに来る時は必ず晴れていますよ」と微笑んだ。また、楊基銓さんは、「建墓の日付は1907年3月26日としました。これは明石総督が欧州から戻る際に台湾海峡を通過した日です」と語っていた。

台北郊外の新北市三芝区に再建された明石元二郎墓地
台北郊外の新北市三芝区に再建された明石元二郎墓地

三板橋墓地に棺とともに埋められていた銅製の碑板も残る
三板橋墓地に棺とともに埋められていた銅製の碑板も残る

知られざる墓碑の今

知る人は多くないが、明石元二郎「墓碑」についても触れておきたい。

台湾中部南投県の中興新村にある「国史館台湾文献館」の敷地の片隅に、明石元二郎総督の墓碑が置かれている。建物の後方、生い茂る林の中を進むと、無造作に並べられた石塊が見えてくる。戦後の一時期、台北市内湖の土中に埋もれていたが、文物収蔵家の郭双富氏が私財を投げ打って掘り出し、2005年11月1日にこの場所へ移された。墓碑は台座と尖塔部が残り、「臺灣総督」「大正八年十月二十六日」などの文字が読める。

墓碑の一部は南投県中興新村に残されている。「臺灣總督臺灣軍司令官陸軍大将男爵明石元二郎墓」と刻まれていた
墓碑の一部は南投県中興新村に残されている。「臺灣總督臺灣軍司令官陸軍大将男爵明石元二郎墓」と刻まれていた

将来を見据えていた数々の「決断」

台湾総督・明石元二郎は世界を駆け巡り、永眠の地として台湾を選んだ。

明石が台湾で下した数々の決断は、どれも50年、100年先の将来を見越したものばかりである。制度改革にしても、港湾開発にしても、発電所建設にしても、その成果は間違いなく次世代以降になって真価を発揮した。

少年時代、「算術」に長けたという明石元二郎。台湾と関わった短い時間の中、何を考え、何を夢見ながら、どのような台湾の将来像を描いていたのだろうか。興味の尽きないところである。

バナー写真=「康楽公園」内にある鳥居(筆者撮影)

参考文献

『明石元二郎関係資料』(中京大学社会科学研究所台湾史研究センター)、『台湾総督府報』、『明石元二郎』上・下巻、『台湾治績史』(井出季和太)、『台湾歴代総督治績』(杉山靖憲)、『台湾総督府』(黄昭堂)、『台湾日誌』、『台湾大年表』、『台湾日日新報』、『台湾時報』ほか

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片倉 佳史KATAKURA Yoshifumi経歴・執筆一覧を見る

台湾在住作家、武蔵野大学客員教授。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)、『台北・歴史建築探訪~日本が遺した建築遺産を歩く』(ウェッジ)、『台湾旅人地図帳』(ウェッジ)、『台湾のトリセツ~地図で読み解く初耳秘話』(昭文社)等。オフィシャルサイト:台湾特捜百貨店~片倉佳史の台湾体験

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