緑地の中に残る鳥居の謎――明石元二郎と台湾

文化 歴史

片倉 佳史 【Profile】

今もなお、台湾の地に眠る明石元二郎。55年の短い生涯だったが、ロシア革命、日韓併合など歴史のターニングポイントではいつも存在していた。明石元二郎と台湾。その生涯を振り返る。

共同墓地はスラムになった

日本の敗戦後、三板橋の墓地は無惨な姿となった。管理者はいなくなり、共産党との内戦に敗れた中華民国国民党軍の下級兵士たちが住みつき、貧民窟の様相を呈した。墓石は倒され、1000戸におよぶバラックが異様な雰囲気となっていた。

1995年、筆者はこの地を訪れた。この時、台北市はここを緑地にすることを決めており、補償金を払った上で不法建築の撤去を決行した。住民はデモを繰り返したが、1000人を超える警察官が取り囲む中、作業が行なわれた。

この時に鳥居が現れた。「現れた」というのは、鳥居がバラック建築の柱として利用されていたため、表からは見えなかったからである。筆者も路地の先に、空中を結ぶ鳥居の横木がまたがっていたのを覚えている。近づいてみると、鳥居の後方には台座も確認できた。ここが明石元二郎の墓地だったのである。

なお、バラックが撤去された際には、約2500柱もの身元不明の遺骨が見つかった。これらは現在、台中市の宝覚寺に安置されている。

不法住宅が撤去された直後の様子。鳥居が突如現れた(1996年筆者撮影)
不法住宅が撤去された直後の様子。鳥居が突如現れた(1996年筆者撮影)

公園に移設され、そして戻された鳥居

その後、緑地化に際し、鳥居は一時、台北二二八和平公園に移された。現在の場所に戻されたのは2010年11月のことである。緑地となった現在、墓地の面影は残っていない。ただ、唯一、墓碑の背後にあったというガジュマルだけが、その場所を伝えている。

傍らには案内板が設けられている。鳥居は二基あり、大きいものが明石元二郎墓地のもの、もう一基が鎌田正威(かまたまさたけ)のものである。鎌田は総督官房秘書官を務めた人物で、明石の右腕として活躍したが、1935年に病没している。

戦後の台湾では、国民党政府による偏向教育が実施されてきた。独善的な歴史観によって、日本統治時代を否定する教育と排日政策が続けられたが、1990年代、李登輝総統の時代に民主化が推進され、言論の自由が保障されるようになった。これに伴い、郷土研究が盛んになり、歴史においても、ありのままの土地の歩みを探究しようとする動きが見られるようになった。

そんな中で、明石の存在も注目されるようになったのである。

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台湾在住作家、武蔵野大学客員教授。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)、『台北・歴史建築探訪~日本が遺した建築遺産を歩く』(ウェッジ)、『台湾旅人地図帳』(ウェッジ)、『台湾のトリセツ~地図で読み解く初耳秘話』(昭文社)等。オフィシャルサイト:台湾特捜百貨店~片倉佳史の台湾体験

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