緑地の中に残る鳥居の謎――明石元二郎と台湾

文化 歴史

片倉 佳史 【Profile】

今もなお、台湾の地に眠る明石元二郎。55年の短い生涯だったが、ロシア革命、日韓併合など歴史のターニングポイントではいつも存在していた。明石元二郎と台湾。その生涯を振り返る。

台湾での埋葬を遺言した明石

明石の時代は突然、幕を閉じた。就任当初から、明石は前例のない頻度で各地を視察し、現地事情の把握に努めていた。しかし、過労がたたり、1919年7月、インフルエンザに感染してしまう。一度は快復し、10月13日に別府での療養のため台湾を離れたが、19日に危篤の報が総督府に入る。そして24日の午前6時30分、帰らぬ人となった。なお、爵位授与の関係で、死亡日は10月26日と発表されている。

明石は生前、総督府総務長官の下村宏に、「万一の際は台湾に葬るように」と遺言を残していた。これに従い、亡骸は氷を敷き詰めた状態で船に乗せられ、台湾に戻った。基隆(きいるん)港に到着した後は、特別列車が仕立てられ、台北に移送された。

葬儀は総督府葬として11月3日の午前8時30分から台北新公園(現・台北二二八和平公園)で執り行なわれ、現在の康楽公園・林森公園にあたる三板橋(さんばんきょう)の共同墓地に埋葬された。沿道では約10万人が柩(ひつぎ)を見送ったとされる。歴代総督19人のうち、台湾を永眠の地に選んだのは明石のみだった。なお、明石家の墓地である福岡市天神の勝立寺には、遺髪と爪だけが納められた。

日本統治時代、三板橋共同墓地に設けられた明石の墓地。昭和19年までは毎年墓前祭が行なわれていた
日本統治時代、三板橋共同墓地に設けられた明石の墓地。昭和19年までは毎年墓前祭が行なわれていた

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台湾在住作家、武蔵野大学客員教授。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)、『台北・歴史建築探訪~日本が遺した建築遺産を歩く』(ウェッジ)、『台湾旅人地図帳』(ウェッジ)、『台湾のトリセツ~地図で読み解く初耳秘話』(昭文社)等。オフィシャルサイト:台湾特捜百貨店~片倉佳史の台湾体験

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