緑地の中に残る鳥居の謎――明石元二郎と台湾

文化 歴史

片倉 佳史 【Profile】

今もなお、台湾の地に眠る明石元二郎。55年の短い生涯だったが、ロシア革命、日韓併合など歴史のターニングポイントではいつも存在していた。明石元二郎と台湾。その生涯を振り返る。

台湾の将来を変えた明石の「英断」

1918年6月6日には台湾総督に任命された。明石は「台湾は東洋の心臓である」との理念を持ち、戦略的に台湾を重視していた。就任直後の訓示でも、産業を発達させ、華南地方や南洋方面との経済的結びつきを強めること、そして、台湾をアジア進出と東洋の平和の足がかりとすることを語っている。また、台湾の慣習や文化を尊重し、親密かつ円満な関係を築くことを説いている。

明石の在任期間は短く、1年4カ月に過ぎない。しかし、歴代総督の中でもまれに見る熱意をもって産業の振興に力を注ぎ、発展の基礎を築いた。そのいくつかを挙げてみたい。

まずは高雄港の拡充である。現在も工業都市として栄える高雄市だが、明石の時代に港を拡充する計画が始動した。同時に、発展を確実なものにするべく、日月潭(じつげつたん)の水力発電所建設を決めた。各方面との折衝を経て、1919年5月15日に帝国ホテルで、明石自身がその理想を財界人を前に語った。そして、7月31日、官民共同出資による台湾電力会社が設立された。

発電所は、明石の没後、1934年に完成。電力の安定供給が実現したことで、高雄は急成長を遂げ、その後の台湾発展の礎となったことは疑いない事実である。

鉄道網の拡充にも力を入れた。輸送量の限界に達していた縦貫鉄道を補完するべく、西部の海岸部を走るバイパス線を建設した。これは「海岸線」と呼ばれ、輸送力増強ばかりか、スピードアップも実現した。

また、台湾総督府内の官制や地方庁制度の改革と部局の再編成、南支・南洋方面の経済交流と国防を視野に入れた華南銀行の設立。司法制度や学校制度をより本土のものに近づけたり、山林の育成のための営林署の権限強化、台湾軍の創設など、様々な取り組みを行なった。また、台湾南部を沃野に変え、農業生産を飛躍的に向上させた大利水工事・嘉南大圳(かなんたいしゅう)の計画についても深い関わりがある。

これらの成果を明石が見ることはなかったが、台湾の歴史を振り返る上では欠かせないものばかりである。明石が下した「英断」は、台湾の将来に向けてまかれた種子のようなものであった。

宜蘭線三貂嶺駅近くの廃トンネルには明石が揮毫(きごう)した「至誠動天地」の文字が残る。海岸線は現在「海線」と呼ばれている。
宜蘭線三貂嶺駅近くの廃トンネルには明石が揮毫(きごう)した「至誠動天地」の文字が残る。なお、海岸線は現在「海線」と呼ばれている

日本統治時代の専売局。明石の治績は産業インフラや交通機関の整備、電力事業、専売事業など、多岐にわたる。教育や司法の制度改革にも取り組んだ
日本統治時代の専売局。明石の治績は産業インフラや交通機関の整備、電力事業、専売事業など、多岐にわたる。教育や司法の制度改革にも取り組んだ

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片倉 佳史KATAKURA Yoshifumi経歴・執筆一覧を見る

台湾在住作家、武蔵野大学客員教授。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)、『台北・歴史建築探訪~日本が遺した建築遺産を歩く』(ウェッジ)、『台湾旅人地図帳』(ウェッジ)、『台湾のトリセツ~地図で読み解く初耳秘話』(昭文社)等。オフィシャルサイト:台湾特捜百貨店~片倉佳史の台湾体験

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