緑地の中に残る鳥居の謎――明石元二郎と台湾

文化 歴史

片倉 佳史 【Profile】

今もなお、台湾の地に眠る明石元二郎。55年の短い生涯だったが、ロシア革命、日韓併合など歴史のターニングポイントではいつも存在していた。明石元二郎と台湾。その生涯を振り返る。

台北市の中心部にある「康楽公園」と「林森公園」は、温暖な台湾らしく、濃いだけでなく、どこか潤いが感じられる緑に覆われたオアシスである。

鬱蒼(うっそう)と生い茂ったガジュマルが南国情緒を醸し出す中に、まるで神社のような大小の鳥居が並んで立っている。脇に設置された案内板には、かつて、第七代台湾総督・明石元二郎(あかしもとじろう)の墓地であったことが記されている。 

元の場所からは若干ずれているが、明石が最初に埋葬された場所に残る鳥居。台北市は郷土史跡に指定している
元の場所からは若干ずれているが、明石が最初に埋葬された場所に残る鳥居。台北市は郷土史跡に指定している

生涯の半分以上を海外で過ごした人物

まずは明石元二郎の生涯を簡単に振り返りたい。明石の55年の生涯はまさに世界を股にかけており、大きくロシア革命に絡む欧州時代と日韓併合に関わる韓国時代、そして台湾時代に分かれるが、今回は台湾時代について取り上げてみたい。

明石は1864年に福岡で生まれた。幼くして父を亡くし、兄とともに母親の手で育てられる。陸軍士官学校に入った後は軍人の道を歩んだ。陸軍大学校時代は、戦術と数学で優秀な成績を修めた。当時、数学は弾道計算のために重視されていたが、明石は歩兵科であるにも関わらず、砲兵科の学生よりも成績が良かったという。また、語学にも際立った才能を発揮し、英語はもちろん、ドイツ語やフランス語、ロシア語も話した。

陸軍大学校卒業の翌年、転機がやってくる。明石は参謀本部配属となり、「日本のインテリジェンスの父」とされる川上操六(かわかみそうろく)に出会い、「諜報の術」を叩き込まれた。

明石は短い在任期間中、5度の地方巡視と2度の東京出張をしている。巡視は人々の暮らしぶりと風土の特性を把握することを目的とした。施政に対する意気込みが感じられる。
明石は短い在任期間中、5度の地方巡視と2度の東京出張をしている。巡視は人々の暮らしぶりと風土の特性を把握することを目的とした。施政に対する意気込みが感じられる

その後、ドイツに留学し、1895年には日清戦争に従軍、下関条約締結後、北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王率いる近衛師団の参謀大尉として台湾に渡る。師団が5月29日に台湾北部の澳底(おうてい)に上陸した際には、明石は揚陸地偵察のため、最初に台湾の地を踏んだ日本軍人となった。

フランスやロシア、スウェーデンの公使館付武官を5年間務め、現地での情報収集のほか、参謀本部から託された巨額の資金を用い、ロシア革命の後方支援を試みた。これによって帝政ロシアは混乱し、日本との戦争を継続することが困難となった。そして、ポーツマス条約へと繋がっていくのは周知の事実であろう。この一連の動きは「明石工作」の名で知られている。

日露戦争後の日韓併合に当たっては、韓国統監・寺内正毅(てらうちまさたけ)のもとで憲兵司令官と警務総長を兼務し、武断政治を進めた。

次ページ: 台湾の将来を変えた明石の「英断」

この記事につけられたキーワード

台湾

片倉 佳史KATAKURA Yoshifumi経歴・執筆一覧を見る

台湾在住作家、武蔵野大学客員教授。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)、『台北・歴史建築探訪~日本が遺した建築遺産を歩く』(ウェッジ)、『台湾旅人地図帳』(ウェッジ)、『台湾のトリセツ~地図で読み解く初耳秘話』(昭文社)等。オフィシャルサイト:台湾特捜百貨店~片倉佳史の台湾体験

このシリーズの他の記事