1964年東京パラリンピック:日本の障害者スポーツの原点
スポーツ 歴史- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
2020年東京パラリンピックによって、東京は史上初めてパラリンピックを2度開催する都市となる。前回の「パラリンピック」は、オリンピック閉幕後の1964年11月8日から12日まで開催された。この大会は当時、国際ストーク・マンデビル競技大会として行われたが、国際パラリンピック委員会(IPC)発足後に、第2回(※1)のパラリンピックと位置づけられた。関係者の証言を交え、この大会がパラリンピックに関わった人々や日本社会にどのようなインパクトを与えたのかを考える。
大会開催で障害者スポーツの環境を改善
日本に障害者スポーツを普及させた立役者が、国立別府病院の中村裕(ゆたか)である。中村は、パラリンピックの源流となったストーク・マンデビル競技大会を創設した、ストーク・マンデビル病院(英国)のルードヴィッヒ・グットマンのもとに1960年に留学し、彼のスポーツを取り入れたリハビリテーションを学んだ。そして帰国後の61年には、大分県身体障害者スポーツ大会を開催している。この中村とグットマンの出会いが日本にパラリンピックを呼び込んだとも言える。
当時の日本は、障害者がスポーツをする環境が設備や道具、法制度などほとんどの面で整っていなかった。国際ストーク・マンデビル競技大会開催の打診を受けて、関係者たちは「国際大会を引き受けるという線を強く打ち出して国内体制をつくりあげる」(※2)と考えたという。極論を言えば、「外圧」として利用し、障害者スポーツの環境改善を図るために開催されたのが64年の「パラリンピック」だったのである。この大会は「国内体制をつくりあげる」ことも企図されたため、脊髄損傷者の国際大会であった第1部の国際ストーク・マンデビル競技大会に、他の肢体不自由者を含む国内大会である第2部(11月13〜14日)を加え二つの大会が行われることになった。
障害者イメージを覆した外国人選手の明るさ
1964年東京パラリンピックは、日本の参加者にとって驚きの連続だった。出場選手だったKさんは、会場での外国人選手との交流など「初めての体験が連なっていた」という。特に彼らの乗る車いすの多様さには目を見張り、「日本には同じ車いすしかないけれど、本当にさまざまな種類があって、こんなことがあるのか」と思ったそうだ。
パラリンピック関係者の多くが必ず触れ、また新聞紙上でも取り上げられたのが、外国人選手の明るさであった。出場選手だったOさんは、外国人選手と日本人選手の雰囲気はまったく違っていたと感じた。「自分たち日本人の障害当事者は世間に慣れておらず、それまで他者との交流がほとんどなかった」という。当時、障害者が社会に出て活動できるような環境は整っていなかったのである。事実、パラリンピックに参加した53名の日本人選手のほとんどが、病院など施設の入院・入所者だった。それに対して、外国人選手の多くは社会復帰を果たし、健常者と同様に暮らしていた。
大会の語学ボランティアをしていたWさんも、外国人選手は選手村の外に出てさまざまな活動をしたがったと述べ、対応した日本人スタッフが彼らの積極性に驚いたことをよく覚えているという。当時の日本社会において、彼らが生き生きと活動すること自体、これまでの障害者イメージを覆すものだったのである。
Kさんは、パラリンピックは新しい障害者像を見せ、教えてくれたと言い、Oさんは障害者を取り巻く環境において日本は30年から40年遅れていると感じたそうだ。こうした外国人選手と日本人選手の違いの要因とされたのが、諸外国と日本の障害者の「社会復帰率の差」であった。パラリンピックの開催が、この「差」を埋めていく契機となった。
大会開催で「障害者に自信を」
パラリンピックの開催が決まってから、主導的立場に就いたのが葛西嘉資(よしすけ)だった。戦後すぐに厚生省(現・厚生労働省)の次官となり、福祉施策の道筋を作った人物である。退官後は日本赤十字社の副社長も務めた。パラリンピック開催にあたって彼の広範なネットワークが威力を発揮した。パラリンピックはさまざまな業務をボランティアに頼る必要があった。例えば、そのうちの一つが語学ボランティアである。日赤が「語学奉仕団」を設立して対応するのだが、これは葛西が日赤の青少年課長で英語が堪能だった橋本祐子に声をかけたことで実現したものだ。
中村が日本にリハビリとしてのスポーツを導入した立役者だとすれば、葛西はパラリンピックを公的な福祉施策の流れに位置づけ、障害者スポーツの体制を作った人物だった。葛西は朝日新聞のインタビューで、パラリンピックの費用が約1億円に上ったことに対する批判、すなわち、大会開催より重度障害者へのケアを重視すべきとの意見に反論している。
彼は、重度者のための施設を造っても収容人数に限界があること、より多くの障害者がパラリンピックを通して自信をつけ社会に復帰できる方が重要であると語った。こうした考えに賛否はつけ難いが、少なくとも、パラリンピックの意義を「社会復帰」のための「更生援護」と結びつけて、障害者スポーツをけん引したのが葛西だった。ただし、「生」そのものが脅かされている重度者が対象ではなかった点は留意しておく必要がある。
障害者への認識度高める効果も
1964年東京パラリンピックのレガシーは、障害者がスポーツをする体制が整備されたことに尽きる。パラリンピック以降、現在の「障がい者スポーツ協会」が設立され、第2部が全国障害者スポーツ大会となり、指導者制度が作られた。続く世代に対して障害者スポーツの可能性を準備したのである。そしてこのレガシーは、日本の福祉施策の流れの中にしっかりと位置付けられていった。つまり、諸外国に比べて低い障害者の「社会復帰率」を上げるべく、一般の人々の障害者に対する認知度を高め、更生援護が可能な障害者の社会復帰を加速させたのだ。ただし、それは戦後の障害者運動が求めてきた重度者の生存の権利の要求とは異なるものでもあった。その意味で、ここでの「障害者」の範囲は狭く、可視化されたのは限られた多様性だった。
2020年東京パラリンピックは社会の中の多様性を可視化し、それを尊重する文化を育むきっかけとなり得るだろうか。あるいは、スポーツをする障害者だけが脚光を浴びるという恐れはないだろうか。パラリンピックの背後に広がる、障害者だけではない、共生社会の多様な在り方を考えていく契機になることを期待したい。
バナー写真=1964年11月8日、パラリンピック東京大会の開会式が東京都渋谷区の織田フィールド(代々木のパラリンピック選手村内)で開会式が行われ、9競技144種目に21カ国・地域から375選手が参加する熱戦が始まった。宣誓する選手の後方に立っているのが、中村裕氏(毎日新聞/アフロ)