新宿:多様な“顔”を持つ東京最大の繁華街 

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関東大震災後に発展した新宿は、第2次世界大戦の戦災により焼け野原となった。しかし終戦から5日後には闇市が立ち上がり、東京で最もにぎわう街へと変貌を遂げていく。

武蔵野の雑木林の中に誕生した新宿駅

東京最大の繁華街として知られる新宿は、新宿駅とともに発展してきた。ギネスブックに「世界一の乗降客数(1日に350万人以上)の駅」と記録される同駅は、1885(明治18)年に日本鉄道品川線の駅として産声を上げた。当時、鉄道駅ができると買い物客が奪われると反対する地域が多かったが、新宿でも、甲州街道の宿場から発展し市街地の中心だった内藤新宿(現在の新宿1、2丁目)の住民が駅の開設に反対。そのため、新宿駅は市街地から離れた甲州街道と青梅街道の間の雑木林の中に開設された。現在のJR山手線である日本鉄道品川線は旅客の利用が少なく、1日50人程度。雨が降ると乗降客ゼロという日もあった。

89年に、甲武鉄道の新宿から立川間、現在のJR中央線が開通した。二つの路線を擁した新宿駅であるが、周りは田舎そのもので武蔵野の原風景が広がっていた。駅の出口は東口のみ。当時の新宿駅では、汽車に乗り遅れると2、3時間は待たねばならず、駅前の茶店で休むことになる。茶店にはその頃流行した赤毛布を敷いた縁台があり、そこで茶を飲み、菓子をつまんで待った。初夏の頃など昼寝をする人もいた。茶店は2軒あり、それぞれタヌキとキツネを飼っていて、タヌキ茶屋とキツネ茶屋と呼ばれていた。今から考えると何ともうらやましい、牧歌的で、ゆったりとした時間が流れていたのである。

新宿駅と同じ85年にフルーツパーラーとして有名なタカノが、繭仲買・古道具を本業、果実を副業とする高野商店として開業している。タカノは新宿御苑と深い縁がある。新宿御苑は、江戸時代には内藤新宿の名の由来である高遠3万石の大名・内藤家の屋敷だった。72年に植物試験場として再出発し、87年にマスクメロンの栽培に成功した。タカノはこのマスクメロンの販売を1920(大正9)年に開始、高級果実店へと舵(かじ)を切っていく。

青梅街道を荷馬車が通る大正時代の新宿(新宿歴史博物館蔵)
青梅街道を荷馬車が通る大正時代の新宿(新宿歴史博物館蔵)

関東大震災後に名店が続々と開業

1923(大正12)年に発生した関東大震災は東京に壊滅的なダメージを与えた。しかし東京の西部に位置する新宿の被害は比較的少なく、繁華街として大きく発展する契機となった。26(昭和元)年にタカノは洋風建築に改装し、タカノフルーツパーラーを開店する。明治の終わりに新宿に移転してきたパン屋の中村屋は、多くの芸術家やインドの革命家を支援した。その革命家直伝のレシピを基にしたカレーを27年に開設した喫茶部で提供している。当時、新宿には木炭を扱う炭屋が多く、紀伊國屋もそんな炭屋の1軒だった。作家としても著名な田辺茂一が炭屋から分かれて本屋を開業したのも同じ27年である。紀伊國屋の2階にはギャラリーも併設され、東京の都市文化の拠点となっていく。

新宿を代表するデパート伊勢丹が開業したのは33年。35年には隣にあった同業のほてい屋を買収し建物を一体化し、連結部分にはエスカレーターを設置。伊勢丹でエスカレーターに乗ることが人気を博した。伊勢丹には当時スケートリンクもあり、若者や家族連れで大いににぎわった。洋画の封切館としての武蔵野館や軽演劇のムーランルージュ新宿座も誕生し、当時の新興階層だったサラリーマンや学生でいつも満席だった。

闇市から欲望の渦巻く街へ

繁華街として発展していた新宿は第2次世界大戦の戦災により瓦礫(がれき)の街となり、残ったのは駅と伊勢丹といくつかのビルだけだった。しかし、焼け跡から新宿は大きく羽ばたく。1945(昭和20)年、玉音放送によって日本の降伏が国民に公表された8月15日の5日後には、「光は新宿より」というキャッチフレーズで、日本最初の闇市が新宿駅東口に立ち上がる。闇市には、食品、衣料品、日用品、飲食店、娯楽場と何でもそろっていた。当時の人々は闇市を利用しなければ生きていけなかったのだ。

47年、伊勢丹の前にあった映画館の帝都座で、日本初のストリップショーと言われる「額縁ショー」(※1)が始まる。新宿発祥の地である新宿2丁目には遊郭街があったが、60年代半ばから日本を代表するゲイタウンとなっていく。人間の欲望に忠実な新宿の街は、誰をも拒むことのない懐の深い街として、その後も発展していった。

新宿の奥座敷である歌舞伎町も、その歴史は敗戦後に始まる。当時の町会長だった鈴木喜兵衛により「道義的繁華街」(※2)として構想され、48年に誕生した。歌舞伎町の名前は、歌舞伎劇場を誘致するという鈴木の意を受けて付けられた。鈴木は敗戦後すぐに疎開先から、当時、角筈(つのはず)北町と呼ばれていた歌舞伎町に戻り、同志を集め地主の協力を得るとともに、借地権を一本化して復興計画を実行に移した。現在の少し危ない歌舞伎町の様子からは考えられないが、その理念は歌舞伎劇場や映画館を擁するお客様本位の商店街をつくるというものだった。結果的に歌舞伎劇場はできなかったが、新宿コマ劇場や、ムーランルージュ新宿座の最後の経営者であった林以文(りん・いぶん)(※3)による映画館・地球座などの開館により、エンターテインメントシティ歌舞伎町の基盤が築かれた。西武新宿駅の開業も歌舞伎町の発展を助けた。

1950年代の歌舞伎町(新宿歴史博物館蔵)
1950年代の歌舞伎町(新宿歴史博物館蔵)

一方で、57年の売春防止法施行により、風俗営業の業者が大挙して歌舞伎町に流れてきて、道義的な繁華街とは言えない地区となり、危ない街というイメージが定着してしまった。しかし、地元商店街などの努力もあり、世界的な旅行ガイドブック『ロンリープラネット』で「東京で最もヤバい歓楽街。しかし驚くべきことにこのエリアは夜歩いても安全だし、夜がことさら面白い」と紹介されるまでになった。現在、映画館ミラノ座の跡地が東急電鉄、東急レクリエーションによって再開発中で、完成の暁には鈴木喜兵衛が目指した道義的な繁華街に近づくのではないかと思われる。

現在の歌舞伎町(PIXTA)
現在の歌舞伎町(PIXTA)

歌舞伎町の外れにある遊歩道「四季の路」は、元は都電の線路だった。今でも奥に行くと道が二つに分かれ線路であったことがよく分かる。四季の路の東側がゴールデン街である。ゴールデン街は闇市の露店がここに移動してできた盛り場で、以前は青線と呼ばれる非合法の風俗街だった。その後、朝まで営業する飲み屋街として多くの文化人が集まる個性的なエリアとなっていく。ゴールデン街については、以下の記事に詳しい。

刺激に満ちた文化都市

タカノや中村屋もビルとなり、1964(昭和39)年に新築された紀伊國屋書店は日本を代表する書店となった。併設された紀伊國屋ホールは演劇の殿堂となり、ゴールデン街の近くにある花園神社境内のテントで上演されたアングラ演劇は、若者たちの熱狂的な支持を得ていった。

1950年代の新宿駅東口(新宿歴史博物館蔵)
1950年代の新宿駅東口(新宿歴史博物館蔵)

60年代、ジャズ喫茶や名曲喫茶には若者や芸術家が集まり、芸術論や政治論を熱く交わしていた。有名な喫茶店である風月堂では、ベトナム戦争に反対した脱走兵をスウェーデンに亡命させるためにかくまうという事件も起きている。日本アート・シアターギルド(ATG)の上映館アートシアター新宿文化やその地下にあった小劇場・蝎座(さそりざ)の支配人であった葛井欣士郎(※4)は「どの映画よりもどの演劇よりも強烈、迫真のドラマが日夜この街で展開していた」と述べている。この言葉は現代の新宿でも通用するかもしれない。

再開発で日本を代表する繁華街に

新宿駅の西口には淀橋浄水場があり、東京都民に飲料水を供給していた。その一方で、繁華街としての発展を妨げているとも言われていたが、1965(昭和40)年に東京の郊外東村山市へ移転した。その跡地にできたのが、丹下健三の設計した都庁舎などがある高層ビル街だ。西口駅前の広場にはデパートもでき、新宿は文字通り日本を代表する繁華街となった。その後、都市開発は新宿駅の南口方面へと進み、甲州街道の南側にも高層ビルが林立するまでになった。

新宿駅の西口にあった淀橋浄水場(新宿歴史博物館蔵)
新宿駅の西口にあった淀橋浄水場(新宿歴史博物館蔵)

現在の新宿駅西口と高層ビル群(PIXTA)
現在の新宿駅西口と高層ビル群(PIXTA)

雑木林の中に生まれた新宿駅から発展した新宿は、高層ビル街から闇市を彷彿(ほうふつ)とさせる路地裏まで多様性にあふれたエリアである。現在、新宿駅を中心とする再開発プロジェクト「新宿駅グランドターミナル構想」が動き始めている。新宿駅の工事は、スペイン・バルセロナのサクラダ・ファミリアのように終わることがないと言われている。新宿は今後も盛り場としての猥雑(わいざつ)さを失うことなく、アジアの先端都市として来る人を拒むことのない懐の深い繁華街であり続けるだろう。

JR新宿駅周辺。2019年11月13日撮影(時事)
JR新宿駅周辺。2019年11月13日撮影(時事)

バナー写真=1932(昭和7)年の新宿大通り(新宿歴史博物館蔵)

(※1) ^ 泰西名画を模した額縁式の舞台セットの中に上半身裸の女性が名画のポーズをとって立ち、それを鑑賞するもの。

(※2) ^ 歌舞伎町の第1回復興協力会総会で鈴木はこんなあいさつをしている。「道義的繁華街とは何ぞやと申しますと、物を売るにもお客様の立場になって商売をする。私はこれを道義的商道と思い、この道義的商道に基づく繁華街を皆様とともに建設いたしたいのであります」

(※3) ^ 日本の実業家、台湾の政治家。惠通企業(現・ヒューマックス)創業者。

(※4) ^ 映画館経営者、映画・演劇プロデューサー。

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