島々の悲歌——沖縄、琉球と台湾(前編)

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琉球王国の終焉

琉球王国のその後の運命は、周知の通りである――1840年の阿片戦争と1853年の黒船来航で、イギリスとアメリカがそれぞれ中国と日本の閉ざされた扉を叩き破り、両国を近代史、近代化の潮流に引きずり込んだ。日中両国の板挟みだった琉球王国もまた否応なしに近代の渦中に巻き込まれてしまった。

首里城から俯瞰する那覇市街(筆者撮影)
首里城から俯瞰する那覇市街(筆者撮影)

黒船来航がきっかけとなり、明治維新が始まり、日本は近代国家へと転換しようとした。近代国家は明確な領土を決めなければならない。その中で、琉球のような曖昧な両属関係が許されなくなった。早い話が、どちらかを選べ、だ。日本側は琉球が自分のものだと考えていたので、「琉球処分」と呼ばれる一連の措置を打ち出した。琉球王国を琉球藩に改め、国王を藩王に格下げし、清国との朝貢貿易をやめるように命じ、清国の冊封を受けてはならないと指示し、明治年号の使用を強いた。これらの要求を受け入れたくない琉球は清国に協力を仰いだが、阿片戦争、アロー戦争を経験し、太平天国の乱にも苦しんでいた清国は、もはや介入する力などなかった。

偶然にも1871年、宮古島島民遭難事件が起こった。当時、琉球王国の宮古島島民が海上で強風に遭って台湾に漂着し、屏東から上陸するも現地の原住民によって殺害された。事件を知った明治政府はこれを政治利用し、琉球に対する主権を主張することにした。1874年、日本は台湾に出兵し、原住民と一戦を交えた。清国はこの件をめぐって日本と協議したが、最終的に日本側の出兵を「保民の義挙」と認め、「大日本琉球藩民五十四名墓」の墓碑まで立てさせた。これは琉球が日本の属国と認めたのも同然である。その後、1879年に日本が廃藩置県を断行し、琉球藩を沖縄県に改めたのも、ドミノ倒しのような結果というべきだろう。450年続いた琉球王国はこのようにして滅び、日本の一つの県になったわけである。

琉球王国が辿る運命に、何か予言的なものを見出すのは私だけだろうか。大陸からの強権に侵略されるのは、大海原に浮かぶ孤島にとって宿命のようなものかもしれない。台湾もまたかつてそのような歴史を辿ってきたが、では今後はどのように身を処せばいいのだろうか。また、首里城はかつて戦禍や火災で4回も焼失しては再建されてきた歴史がある。今回の火災が、歴史が繰り返されているという警鐘を鳴らしているように感じるのは、私だけだろうか。

那覇を後にして私は次の目的地、与那国島へ向かった。これは日本の西国境(さいはて)の島である。後編に続く。

バナー写真=御庭から撮影した正殿、北殿、南殿(筆者撮影)

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