
島々の悲歌——沖縄、琉球と台湾(前編)
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首里城から見る琉球王国のジレンマ
首里城は琉球王国の王宮で、政治と権力の中心にして、国王が生活したり、執務したり、外国の使節をもてなしたりする場所である。沖縄諸島は東アジアの要衝の地にあるため、古くから貿易が盛んで、島と大陸の間をよく行き来していて、琉球王国成立(1429)後もこの伝統を受け継いだ。首里城の敷地内で、那覇市街を俯瞰できる東屋に、かの有名な「万国津梁の鐘」(レプリカ)が懸かっている。鐘の銘文はこうある。
琉球國者、南海勝地、而鍾三韓之秀、以大明為輔車、以日域為唇齒、在此二中間湧出之蓬萊島也。以舟楫為萬國之津梁、異産至寶、充滿十方剎。
書き下し文:
琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車と為し、日域を以て唇歯と為して、此の二つの中間に在りて湧出せる蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁と為し、異産至宝は十方刹に充満せり。
現代語訳:
我が琉球王国は南海の恵まれた位置にあり、朝鮮の優れた文化を吸収していて、中国とも日本とも互いを必要とする密接な関係を結んでいる。まさしく日中両国の間に浮かぶ蓬莱の島である。船で海を渡り万国の懸け橋となり、珍しい産物や至高の宝物に満ちみちている。
蓬莱とは中国神話に出てくる、東海にあって仙人が住んでいる神の島だが、実は台湾だったのではないかという説から、今でも台湾の異称として使われている。琉球王国もまた「南海の勝地」や「蓬莱島」と自称しているというところが、既に台湾を思い起こさせる。「舟楫(しゅうしゅう)を以て万国の津梁(しんりょう)と為し」という一文は貿易立国の決意を表しているが、天然資源が乏しい島国にとって、貿易以外に身を立てる手段があまりないように思われる。これもまた大航海時代以降に貿易の要衝となった台湾とはとても似ている。更に、「大明を以て輔車と為し、日域を以て唇歯と為」すという一文はポジティブに言ってはいるが、中国(明国)と日本という二つの大国の板挟みになっていたという難しい境遇を暗に示している。
琉球は統一前の三山時代から既に中国と朝貢貿易を行っていたが、琉球王国建国後もそれを維持した。自分が宗主国である中国の属国だと認め、中国に対して進貢をし、その代わりに貢物よりも遥かに高額の物品を受け取るというのが、朝貢貿易の仕組みだ。朝貢貿易の双方は「献上」と「下賜」の関係にあり、決して「貿易」という言葉で思い起こされるような対等な関係ではないのだ。
古くから中国と対等な関係でいようとした日本とは違い、中国との朝貢貿易は琉球王国にとってほとんど命の綱といってもいい。そのため、琉球王国は実に色々な面で中国に気を遣っていた。国王の代替わりがあるたびに中国に報告しなければならず、中国が属国に対して派遣する冊封使を接待し、臣下としての承認を受けなければならない。首里城の一番外側にある中国風の「守礼門」、その「守礼之邦」の扁額が、まさに中国からの冊封使に対して、自分たちはまだ儒教の教えを守っているということを示すためにある。首里城正殿内の玉座の周りは華やかな装飾が施され、瑞雲(ずいうん)や竜が描かれているが、それらの竜はことごとく四本爪である。五本爪の竜は中国の皇帝の象徴だから、琉球の国王がそれを使ってはいけないのだ。
中国に配慮するほかに、琉球はまた日本の顔色も窺わなければならなかった。1609年、日本の薩摩藩(現・鹿児島県)が琉球王国に侵攻した。琉球は元々中国の支援を期待していたが、折しも中国は明末の混乱期に当たり、琉球を助ける余裕などなかった。平和に慣れていた琉球民は薩摩藩の侵攻に対してそれほど抵抗はせず、すぐに降参したそうだ。それから琉球は薩摩の実質的な支配を受けるようになった。中国との朝貢貿易を続けるために、琉球は琉球王国という国名と、中国の属国という立ち位置を維持した。日本の支配を受けながらも、昔と変わらず2年ごとに中国と朝貢貿易を行い、国王の代替わりの時もいつも通り冊封使を接待した。一方で、数年または数十年ごとに、「江戸上り」を行うようになった。幕府の将軍に謁見するために、琉球王国は使節を派遣し、琉球から薩摩へ出発し、長崎、大坂、京都を経て、最終的に江戸に到着する。ほぼ1年がかりの旅である。
中国と日本の板挟みという琉球王国の難しい状況を具体的に表しているのが、首里城正殿前の御庭である。御庭は琉球王国の官僚が国王に謁見する時などに使われる広場である。南面北座という中国の伝統的な宮殿建築の特徴とは違い、首里城正殿は西面東座となっている。これは琉球王が太陽の象徴と見なされていたため、東が尊ばれていたからだと言われる。正殿に向かって見ると、右側が南殿で左側が北殿である。南殿は主に薩摩の官僚を接待する時に使われるため、木造の和風建築様式を採用しており、内部も畳の和室となっている。北殿は中国からの冊封使を接待する時に使われるため、紫禁城のような朱色に塗装し、中国建築の特徴である太く赤い円柱が配されている。琉球国王が百官に接見する時に使われる正殿に至っては、中国風の朱色に塗装してはいるが、唐玻豐(本当は「唐破風」だが、琉球は破風という漢字のイメージを好まないため、玻豐と表記していた)という日本の城郭建築によく見られる特徴が取り入れられている。日本式の南殿、中国式の北殿、そして和中折衷の正殿――御庭を取り囲む三面の建築を見ていると、琉球王国が陥ったジレンマに思いを馳せずにはいられない。そしてそれもまた、米中の二大強国に板挟みになっている今日の台湾の、揺らぎ、戸惑い、逡巡している姿に重なって映る。