忘れたの?それとも、思い出すのが怖い?――台湾映画『返校』をみて考える、歴史への向き合い方

社会 歴史 Cinema

台湾映画の興行成績を次々と塗り替えている『返校』。白色テロを題材にした作品では、実に20年以上現れていなかったという。制作側の思いと、それを受け入れる台湾社会について分析する。

きちんと歴史を見つめて反省できる勇敢な国には未来がある。こんな作品ができるならば、これからの台湾もきっと大丈夫。

これが、2019年の中華圏を代表する台湾の映画賞「金馬奨」で12項目ノミネートされ、公開から2週間程度にも関わらず次々と台湾映画の興行成績を塗り替えている驚異の作品『返校』を見終わったときの、素直な感想である。台湾発のインディーズゲームが原作となった異色の本作は、台湾の1960年代、白色テロ(市民に対する政府の暴力的な弾圧)真っ最中の時代に、ある高校で起こった、政府から禁じられた本を読む読書会迫害事件を描いたファンタジーホラーだ。

映画『返校』(影一製作所提供)
映画『返校』(影一製作所提供)

20年以上現れなかった白色テロを描いた映画

舞台は1962年、山の中にある翠華高校である。女子高生の方芮欣(ファン・ルイシン)が教室で眠りから目を覚ますと、学校には誰もいない。荒れ果てたディストピアとなった校内をさまよううちに、彼女を慕う後輩の男子学生・魏仲廷(ウェイ・ヂョンティン)と出会い、2人は学校からの脱出を試みるも、どうしても出られない。そこから2人は、かつて学校で起こった政府による反体制者への迫害事件、およびその原因をつくった密告者の真相に近づいてゆく。2005年に台湾のエミー賞といわれる「金鐘奨」で最優秀演出家賞を最年少で受賞した、1981年生まれの徐漢強(ジョン・シュー)が監督。主演の王淨(ジングル・ワン)は中学生のときから小説を発表・出版もしている才女で、本作によって大注目を浴びた。

映画『返校』(影一製作所提供)
映画『返校』(影一製作所提供)

台湾では、『悲情城市』(1989年/監督:侯孝賢)や『スーパーシチズン 超級大国民』(1994年/監督:萬仁)以降、二二八事件や戒厳時代の白色テロをきちんと描写した映画作品が20年以上現れなかった。日本の植民地時代を経験し、実は戦後の状況も台湾と似ている韓国においては、光州事件を題材にとった『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年)や、軍事政権下での弾圧と民主運動を描いた『1987、ある闘いの真実』(2017年)など、民主運動をテーマにしたエンターテインメント作品が次々と世界的にヒットしている。

そんな訳で、台湾でも「韓国はできるのに、どうして台湾は二二八事件や白色テロをテーマにした商業映画が作られないのか」という議論が巻き起こった。そうした指摘に対し、今回の『返校』は、台湾映画が得意のホラー路線で大いに応えたといえそうだ。

筆者が見に行ったのは公開から2週間たってからだが、台北のほぼすべての映画館で1時間おきに上映されているとは思えないぐらい観客が入っていた。ここまで台湾製の映画が大当たりし、社会現象ともなっているのは、霧社事件を描いた2011年の『セデック・バレ』(魏徳聖監督)以来である。中でも特筆すべきは、中高生などの若い世代に圧倒的に支持されていることだろう。

映画のレイティングがPG12(12歳以上なら鑑賞可)ということもあり、台湾ホラーブームの火付け役となった『紅衣小女孩1』『紅衣小女孩2』(R15)ほどは作り込みのグロテスクさや展開の恐怖指数が低いので、怖いのが苦手な人にも受け入れやすい。むしろ、年齢制限を下げて自分たちの子どもたちにこそ見てほしい、という作り手の希望がしっかりと反映されているように感じた。それは、この作品の一番のメッセージが「今ある自由や民権は元からあるものではなく、多くの人の犠牲の上に獲得したのを忘れないで」というものだからだ。

若者と改めて「自由と民主」の価値観を共有しようとする試み

筆者は以前、台湾のホラーブームについての記事を書いた。

最近の台湾のホラーや妖怪ブームは、日本でかつて明治期に柳田國男「遠野物語」が作られたように、共通記憶によって「国民的一体感」をつくりだし、「台湾人とはなにか」というナショナルな心の運動を起こすことにつながっている。また、これからの台湾におけるエンターテインメントにおいて、台湾人意識や台湾本土目線がヒットの大きな鍵を握ることもうかがわせる内容である。

今回の『返校』は、そうした意味で予想の延長にはあるものの、それを超える素晴らしさもあった。それは「歴史認識」の取り扱い方が、自分たちの属する共同体の歴史の一つとして多くの犠牲者を生んだ白色テロの時代を描きだし、戦後の台湾にずっとくすぶっている本省人・外省人の省籍問題を越えて、次世代をつくる若い人たちと改めて「自由と民主」という価値観を共有しようという試みに思えたからである。

近年は、愛国心と歴史認識のアンバランスさが世界中いたるところで目立ってきている。例えば、ドイツの極右勢力によるナチスの「ホロコーストは無かった」という主張のみならず、日本の極右から始まった「南京事件や慰安婦問題は捏造」という主張は、伝染病のように一般的な日本人をも巻き込んでいっている現状を、筆者は心より憂えるものだ。

歴史に向き合うことは、難しい。そして多大な体力と勇気を伴う。国が衰え、経済的・心理的な余裕を失い、よりどころを国家に求めるようになれば、ポジティブな遺産にばかり目が向いて、後ろめたさを伴う負の遺産については忘れる、もしくは忘れたふりをしているうちに、やがて思い出せなくなる。

忘却とは、時間から人間に贈られたひとつのプレゼントである。苦しく辛いことがあったとき、愛する人を失ったとき、時間と忘却は唯一の薬ともなる。しかし、その効能とは裏腹に、時の権力によってうまく利用されてしまうことが、多々あるものだ。それに対抗するため、簡単には答えを出さないこと、未来のためにどうするべきかをさまざまな形で問い続けることが、文化や芸術の役割であると筆者は考える。

近年、日本はじめ世界中でヒットしたアニメーション作品『この世界の片隅に』(2016/片渕須直監督)は、太平洋戦争によって徐々に奪われた暮らしへの慈しみを丁寧に描くことで、「戦争の恐ろしさ」の忘却へとあらがった。2019年公開の、日系米国人監督によって制作されたドキュメンタリー映画『主戦場』(ミキ・デザキ監督)は、慰安婦問題を巡って左右の論客・文化人にインタビューを行いながら歴史認識を検証し異例の注目を浴びた。しかし、その後も神奈川県川崎市の市民映画祭「第25回 KAWASAKIしんゆり映画祭2019」において上映が中止されるなど、日本において歴史認識に向き合う表現はどんどん難しくなっていると感じる。

本作の中で、怪物的な国家権力の権化として出てくるモンスター憲兵の顔が鏡となって、主人公に忘却を強いるのは、非常に象徴的だ。「忘れたら楽になる」「助けてやる」というモンスターの顔に映り込むのは主人公自身の顔である。権力という怪物は、ひとりひとりの国民の投影でもあり、忘れることによって、また再び同じことが繰り返されるというメッセージを映画は繰り返し発する。こうした映画が作られる事、そしてこうした映画に公的な助成が行われている事は、台湾文化の土壌の豊かさを表わすものであり、それが冒頭の感想につながったのである。

 映画『返校』(影一製作所提供)
映画『返校』(影一製作所提供)

韓国における公的助成

最後に、台湾では今後も面白い作品が出てくるとは思うが、公的助成については、韓国映画振興委員会(KOFIC)の方法論はとても参考になると思う。韓国映画振興委員会(KOFIC)の「多様性映画」助成の諸条件には、例えばこんなものがある。

  • 複雑なテーマを扱い、大衆が理解しがたい映画
  • 商業映画の外で文化的・社会的・政治的イシューを扱う映画 

興行的な成功が見込まれる商業映画以外をきちんと公費で目配りしていくことで、制作者や業界は育っていく。多様性ある土壌は発酵して豊かさを増し、やがて大きな花を咲かせるのは、ここ20年の韓国映画によく表れている。これからの台湾でも、どんな映画作品が生まれてくるのか、多いに期待したいところだ。

映画『返校』(影一製作所提供)
映画『返校』(影一製作所提供)

参考:(1)独立映画鍋、(2)映画の多様性を保証する文化政策

バナー写真=映画『返校』(影一製作所提供)

映画 台湾 国民党 白色テロ 戒厳令